郷里の友人(おっぱい)が昼休みに電話よこして仕事の愚痴をグチグチこぼしていた。宮仕えを数年前に退いた私はそんな感情は忘却の彼方であったので、『そんなもん場末の居酒屋のテーブルにでもぶちまけてろよ』(←ヒドイ)とか思いながら聞いていたわけであるが、思えば女だてらに課長だかマネージャーだかなんだかよくわからない中間管理職についている郷里の友人(おっぱい) の苦労は私なんかには計り知れない。いや、ほんと、大したもんだと思うよ。うん。でもアレだろ?今週末は製薬メーカーのイケメン営業マンと合コンだっけか?ふぅ~~ん(←悔しい)。
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人生は不平等だ。いや、合コンの話じゃなくって、本人の意思とは関係なく性差、境遇、その他諸々の非常に単純な事象が明暗を分けてしまう。それは本人の意志も国の制度も関係なく訪れる。例えば教育だ。いや、教育制度が云々とかの小難しい話じゃあなくね、単純な話よ。
それでは例として、簡単なクイズを出しましょう。
4月生まれの子供と3月生まれの子供、どちらが学校の成績が良くなりやす~~~いかっ?
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答えは言うまでもない、4月生まれの子供だ。小学校に入学したときの彼(彼女)らは3月生まれの子供よりほぼ一年年上だからだ。6、7歳の子供の一年の差は大きい。体力差は言うに及ばず、知能の発達の点でも、明らかに違いが出る。3月生まれの子供は、そんな不合理な競争環境に晒され、もしかしたら劣等感が産まれてその後の学校生活において自信が持てなくなるかもしれない。
しかしこれは言うまでもないが本人のせいではない。ましてや制度の問題でもない。どこで区切っても一年の差が生まれることに変わりはないからだ。まさか一ヶ月単位で学年を区切るわけにもいかない。
参考URL:http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis162/e_dis162.html (内閣府)
このようにどうにも改善しがたい問題というものが往々にしてあるのだ。それは『不公平』と呼ぶにはあまりにもやるせない現象である。だって、不公平もなにも生まれた日はどうしようもないもん。これから子作りを考えている新婚さん、お子さんの誕生日は4月でっ!(←教育熱心な親御さんたちの間でこういうことにもなりかねない)
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さて、改善しがたい問題を議論してもどうしようもないので、現代のわが国において必要とされている人的資源はどんなタイプなのかということを考えてみよう。
教育とは時代によって異なるものだ。平安時代の貴族達は和歌や蹴鞠が上手なのが素晴らしいこととされていたし、戦国時代の武士や大戦中の兵隊さんは命を懸けて戦うのが美徳とされ、そういう教育が国を上げて行われていた。江戸時代の農民は反抗的な態度を取らず、政治については知らされることもなく土着で真面目に農業を営むことが素晴らしいこととされていたのだ。
それらに照らし合わせて、現代で最も必要な人間的要素を考えると答えが出てくる。
ズバリ、『変化に強い人間』と、こうである。言い換えると『学習意欲が高い人間』だ。
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理由は簡単。西暦1年から西暦1800年代までの変化より、西暦1900年から現在までの変化のほうが遥かに大きいからだ。そしてその変化のスピードは年々早まっている。俗にいうドッグ・イヤーである。
その変化は様々な労働環境の変革をもたらした。ITやオートメーション技術による『労働力の代替化』が起こった。格差、格差と叫ばれている昨今であるが、これはもう、テクノロジーの進歩がある以上、どうしようもないようなことに思えてしまう。企業はボランティア団体ではない。営利団体である。安価で正確性が高ければそちらを選ぶのは当然である。
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そんな中で現代に求められている『学習意欲が高い人的資源』を育成するにはどうしたらいいのだろう・・・。
やっぱ授業面白くすることじゃないだろうか。学校の勉強つまんないもの。子供たちだって楽しい学習方法のほうが意欲が湧くと思う。
そして、我々大人だって、学習意欲を持っていないと時代に取り残されてしまうのだぞ!?
つづく!(かもしれない)


