ろみぃの胸が、ほんの少しだけざわついた。
「被害者モード。」
上山の言葉は軽く聞こえたが、どこか確信めいていた。
ろみぃは小さく首を傾げる。
「でも、本当に手が痛いのかもしれませんよ。」
上山は肩をすくめた。
「そりゃそうだ。」
それから少し声を落とす。
「ただな。」
ろみぃが見る。
上山は稲田の方をちらっと見て言った。
「庶務を全部取った人が、急に庶務できなくなる。」
少し間を置く。
「で、誰かが代わりにやる。」
ろみぃは黙る。
上山は続けた。
「その時に何が起きるかっていうとな。」
椅子をくるっと回す。
「“やってもらってる人”になる。」
ろみぃはその意味をゆっくり考えた。
今まで。
稲田は庶務を管理している人だった。
郵便も。
備品も。
来客も。
全部、自分の担当。
でも今日。
郵便はろみぃが取りに行った。
来客準備もろみぃがした。
コピー用紙の補充は古沢がやっていた。
稲田は席に座っていた。
その姿を思い出す。
机でキーボードを打つ姿。
両手で。
ろみぃは小さく息を吐いた。
「考えすぎじゃないですか。」
上山は少し笑った。
「だといいけどな。」
⸻
次の日の朝。
ろみぃが出勤すると、稲田はやはり席にいた。
八時出勤。
机の上はきれいに整っている。
ただ、昨日と同じように右手を机の上に置いていた。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
挨拶はいつも通りだった。
そして稲田が言った。
「昨日はすみません。」
ろみぃは顔を上げる。
「手が痛くて、庶務ほとんどできなくて。」
ろみぃは「いえ」と答えた。
「大丈夫ですよ。」
稲田は少し安心したように頷いた。
「今日は郵便くらいなら…」
そう言いながら立ち上がろうとする。
だがその時、古沢が言った。
「あ、郵便なら私取ってきたよ。」
フロアの空気が、ほんの一瞬止まった。
稲田がゆっくり古沢を見る。
古沢は悪気のない顔で言った。
「ちょうど通るところだったから。」
ろみぃはその場の空気を感じ取った。
古沢は本当に気を遣っただけだ。
手が痛いと言っていたから。
だから先にやった。
ただそれだけ。
でも。
稲田の顔に、ほんの一瞬だけ影が落ちた。
「…そうですか。」
小さく言う。
そして席に座り直した。
「ありがとうございます。」
声は丁寧だった。
でも、ろみぃにはわかった。
その声は少し硬い。
⸻
昼休み。
ろみぃは食堂で上山と向かい合っていた。
上山がぽつりと言った。
「もう始まってる。」
ろみぃは聞く。
「何がですか。」
上山は箸を置いた。
「縄張り、触られた。」
ろみぃは思い出す。
さっきの郵便。
古沢が取ってきた。
それだけのこと。
でも。
上山は続けた。
「しかも理由は“親切”。」
ろみぃは黙る。
上山は苦笑した。
「一番めんどくさいやつ。」
ろみぃは少し困った顔をした。
「古沢さん、悪くないですよ。」
「もちろん。」
上山は頷く。
「だからややこしい。」
ろみぃはふとフロアのことを思った。
稲田。
古沢。
そして自分。
それぞれが普通に動いているだけなのに。
少しずつ、何かが噛み合わなくなっている。
上山がぽつりと言った。
「ろみぃ。」
「はい。」
「これからな。」
少し間を置く。
「誰が敵になるか、わからなくなるぞ。」
その言葉を聞いたとき。
ろみぃの胸の奥に、小さな不安が広がった。