その言葉を聞いたとき、ろみぃの胸の奥に小さな不安が広がった。

食堂の窓から午後の光が差し込んでいる。
外は穏やかな昼下がりなのに、胸の奥だけがざらつく。

「誰が敵になるか、わからなくなる。」

上山の言葉は、どこか予言みたいだった。

ろみぃは箸を置く。

「そんな大げさな…」

そう言いかけて、言葉を止めた。

頭の中に、いくつかの場面が浮かぶ。

コピー機の前で止まった稲田の手。
古沢が郵便を取ってきた朝。
備品棚の前での沈黙。

どれも小さなことだ。
でも、小さな違和感が積み重なっている。

上山は水を一口飲んで言った。

「職場ってな。」

ろみぃが顔を上げる。

「仕事そのものより、人の動きで空気が変わる。」

ろみぃは黙って聞く。

上山は続けた。

「今、部署の中で一つの流れができてる。」

「稲田の庶務。」

ろみぃは頷く。

「それが崩れたとき、どうなるか。」

少し間を置く。

「誰かのせいになる。」

ろみぃはその言葉を胸の中で転がした。

誰かのせい。

それは、簡単に起きる。



その日の午後。

ろみぃが席に戻ると、稲田はパソコンを見ながらメモ帳に何か書いていた。

あの「庶務管理メモ」だ。

ページをめくり、細かく何かを書き込んでいる。

ろみぃはふと気になって、少しだけ横目で見た。

ページの端に、整った字で並んでいる言葉。

郵便
備品在庫
来客準備
コピー用紙
ドリップコーヒー
紙コップ

細かくチェックの印がついている。

ろみぃは少し驚いた。

こんなに細かく管理しているのか。

そのとき、稲田がふと顔を上げた。

視線が合う。

ろみぃは軽く笑った。

「すごいですね。」

稲田は少し首を傾げる。

「何がですか?」

「そのメモ。」

ろみぃは言う。

「全部書いてるんですね。」

稲田はノートを少し閉じた。

「忘れないようにしてるだけです。」

声は落ち着いている。

でもその仕草は、どこかノートを隠すようだった。

「前の部署でも、こういうのやってたんですか?」

ろみぃが聞く。

稲田は少し考えてから答えた。

「前は、庶務がきちんと決まってたので。」

「こんなに曖昧じゃなかったんです。」

その言い方に、ろみぃはほんの少し引っかかった。

曖昧。

確かにそうかもしれない。

でも今まで、この部署はそれで回っていた。

ろみぃはそれ以上聞かなかった。



夕方。

郵便がもう一度届いた。

古沢が立ち上がる。

封筒を受け取る。

そして自然に仕分けを始めた。

その様子を、稲田がちらっと見ている。

ろみぃはそれに気づいた。

稲田は少しして席を立つ。

古沢の横に来る。

「…あの。」

古沢が顔を上げる。

「はい?」

稲田は言った。

「郵便、私やります。」

古沢は少し驚いた顔をした。

「あ、大丈夫よ?」

「手、痛いんでしょ?」

稲田は首を振った。

「仕分けくらいなら。」

古沢は少し困ったように笑う。

「もう半分やっちゃったわ。」

その言葉のあと、ほんの一瞬だけ空気が止まった。

稲田は封筒を見る。

そして小さく言った。

「…そうですか。」

その声は静かだった。

古沢は気づいていない。

でもろみぃにはわかった。

その一瞬の沈黙。

稲田は、自分の役割を取り戻そうとしていた。

でも、すでに誰かがやっていた。

ろみぃの胸に、上山の言葉が浮かぶ。

縄張りを触られる。

それは、思ったより小さなことで起きる。



帰り際。

上山がコートを着ながら言った。

「ろみぃ。」

「はい。」

「今日見ただろ。」

ろみぃは苦笑した。

「郵便ですか。」

上山は頷く。

「始まってる。」

ろみぃは少し疲れたように息を吐いた。

「ただの行き違いかもしれませんよ。」

上山は靴を履きながら言った。

「そう思っといた方が楽だな。」

そしてドアを開けながら付け足した。

「でもな。」

ろみぃが顔を上げる。

上山は静かに言った。

「この手の人は。」

少し間を置く。

「自分の仕事、取られるのが一番嫌いだ。」

廊下の電気が静かに灯っている。

その中で、ろみぃは思った。

もし本当にそうなら。

今日の郵便は。

ほんの小さなことだけど。

何かの始まりなのかもしれない。