その日の帰り道、ろみぃは少し考えていた。
頭の中に浮かぶのは、最近の稲田の様子ばかりだった。
庶務を全部引き受けたこと。
細かく管理していること。
そして、手が痛いと言い出したこと。
どれも一つ一つはおかしくない。
でも、並べてみるとどこか引っかかる。
ふと、海野の言葉を思い出した。
「したたかですよ。」
あの時は、正直少し大げさに聞こえた。
でも、今は少し気になっていた。
ろみぃはスマホを取り出し、社内チャットを開く。
海野の名前を探す。
少し迷ってから、短いメッセージを送った。
「海野さん、少しお聞きしたいことがあるんですが、今度少しお時間いただけませんか?」
すぐに既読がついた。
数秒後、返信が来る。
「いいですよ。どうしました?」
ろみぃは一度深呼吸してから打った。
「稲田さんのことで、少し。」
画面の向こうで、少し間が空いた。
そして返信が来た。
「やっぱり。」
その一言に、ろみぃは思わず画面を見つめた。
⸻
二日後の昼休み。
社屋の外にある小さなカフェで、ろみぃと海野は向かい合って座っていた。
海野はコーヒーを一口飲んでから言った。
「今、どうですか?稲田さん。」
ろみぃは苦笑する。
「庶務、全部やってます。」
海野はすぐに笑った。
「あー…」
その反応があまりに早くて、ろみぃは少し驚いた。
「やっぱりですか?」
海野は頷いた。
「最初はそうなんですよ。」
ろみぃは聞く。
「最初?」
海野はテーブルに指を置いたまま言った。
「前の部署でも似た感じでした。」
ろみぃの背筋が少し伸びる。
海野は続けた。
「最初はすごく真面目に見えるんです。」
「仕事もきっちりやるし、整理整頓もすごいし。」
ろみぃは思わず頷いた。
まさに今の稲田だ。
海野は少し苦笑した。
「でもね。」
少し声を落とす。
「任されると、ミスが増えるんですよ。」
ろみぃは聞き返した。
「ミス?」
海野は頷く。
「結構大きいのもありました。」
「書類の提出忘れとか。」
「発注ミスとか。」
「来客の準備忘れとか。」
ろみぃの胸が少しざわついた。
海野は続ける。
「最初は周りもフォローしてたんです。」
「忙しいのかな、とか。」
「慣れてないのかな、とか。」
ろみぃは静かに聞いている。
海野はコーヒーを置いた。
「でもね。」
少し間を置く。
「ミスが続いたんです。」
「それで、少しずつ担当を減らされたんですよ。」
ろみぃは小さく息を吸った。
「担当を…」
海野は頷く。
「そう。」
「大きい仕事は外されて。」
「最終的には、あまり任されなくなりました。」
ろみぃの頭の中で、何かが静かに繋がる。
海野はさらに言った。
「その時なんですけどね。」
ろみぃが顔を上げる。
海野は少し苦笑した。
「稲田さん、言ってたんですよ。」
「仕事を取られたって。」
ろみぃは思わず聞き返した。
「取られた?」
海野は頷いた。
「上司に任されなくなったのに。」
「“仕事を奪われた”って。」
ろみぃは言葉を失った。
海野は続ける。
「しかも、周りの人の名前を出して。」
「○○さんが横取りした、とか。」
「△△さんが私の仕事を奪った、とか。」
ろみぃの胸がゆっくり重くなる。
海野は静かに言った。
「でも実際は。」
少し間を置く。
「ミスが多かっただけなんです。」
店内に小さな沈黙が落ちた。
外を車が通り過ぎる音が聞こえる。
ろみぃはゆっくり言った。
「じゃあ…」
海野を見る。
「今、庶務全部やってるのって。」
海野は少しだけ笑った。
「たぶん。」
コーヒーを一口飲む。
そして言った。
「自分の場所、作ってるんですよ。」
その言葉を聞いた瞬間、
ろみぃの頭の中に、いくつもの場面が浮かんだ。
整然と並んだ文房具。
庶務管理メモ。
郵便を取り戻そうとしたあの瞬間。
海野は静かに付け加えた。
「で、その場所が崩れると。」
ろみぃが息を止める。
海野は淡々と言った。
「誰かのせいになります。」
ろみぃはしばらく何も言えなかった。
海野の言葉は、静かだったが妙に重かった。
ろみぃはゆっくり聞いた。
「海野さんも…言われたんですか?」
海野は少し笑った。
その笑いは、困ったような、でももう慣れてしまったような笑いだった。
「言われましたよ。」
コーヒーカップを指で回しながら続ける。
「私が仕事を取ったって。」
ろみぃは思わず身を乗り出した。
「海野さんが?」
海野は肩をすくめる。
「そう。」
「最初はびっくりしました。」
「私、そんなつもり全然なかったので。」
ろみぃは想像してみる。
海野は落ち着いた人だ。
話し方も穏やかで、部署の人たちとも自然にやり取りしている。
とても、人の仕事を横取りするようなタイプには見えない。
海野は続けた。
「ある日、課長に呼ばれたんです。」
ろみぃは息を止める。
海野は少し遠くを見るように言った。
「“海野さん、何かあった?”って。」
ろみぃは聞く。
「課長から?」
海野は頷く。
「稲田さんが、私に仕事を取られてるって言ってるらしくて。」
ろみぃの胸が少しざわつく。
海野は淡々と続ける。
「でも課長も、ちょっと不思議だったみたいです。」
「私、普通に仕事してただけだったので。」
ろみぃは小さく聞く。
「それで、どうなったんですか?」
海野は少し笑った。
「課長が、周りに聞いたらしいです。」
「部署の人たちに。」
ろみぃは黙って聞く。
海野は言った。
「そしたら、皆“そんなことないです”って。」
「むしろ私がフォローしてるって言われたみたいで。」
ろみぃはほっとしたように息を吐いた。
海野は続ける。
「それで課長も、ああ…ってなったみたいです。」
ろみぃは少し考えてから言った。
「違和感に気づいたんですね。」
海野は頷いた。
「たぶん。」
そして少し声を落とす。
「稲田さんの言い方が、ちょっと極端だったんですよ。」
ろみぃは首を傾げる。
「極端?」
海野は言った。
「“全部取られた”とか。」
「“私の仕事なのに”とか。」
「そういう言い方。」
ろみぃは、あの庶務管理メモを思い出した。
郵便。
備品。
来客。
全部、自分の管理。
海野は静かに言った。
「たぶんね。」
ろみぃが顔を上げる。
「自分の中で、“これは私の仕事”って決めちゃうんですよ。」
「誰が決めたわけでもないのに。」
ろみぃの胸に、何かがすっと落ちた。
海野は続ける。
「それで、それを誰かがやると。」
少し間を置く。
「取られたって感じる。」
ろみぃは、今の部署の光景を思い浮かべた。
郵便を取ってきた古沢。
コピー機を直した自分。
そのときの稲田の顔。
海野は最後に言った。
「だから気をつけた方がいいですよ。」
ろみぃは聞く。
「何をですか?」
海野は静かに言った。
「ろみぃさん、庶務やっちゃうでしょ。」
ろみぃは苦笑する。
「やっちゃいますね。」
海野は小さく頷いた。
「たぶん今、ろみぃさん。」
少し間を置く。
「稲田さんの“テリトリー”に一番近い人です。」
その言葉を聞いたとき。
ろみぃの頭の中に、上山の声が重なった。
「誰が敵になるか、わからなくなる。」
ろみぃはコーヒーを一口飲んだ。
コーヒーは少し冷めていた。
ろみぃはカップをゆっくり置いた。
頭の中で、いくつかの点がつながり始めていた。
稲田が庶務を全部引き受けたこと。
細かく管理していること。
そして、手が痛いと言い出したこと。
海野は静かに言った。
「私のときも、似た流れでした。」
ろみぃは顔を上げる。
「似た流れ?」
海野は頷く。
「最初は、色々任されるんです。」
「“私やります”って、自分から言うことも多いし。」
ろみぃは思い当たる節がありすぎて、思わず苦笑した。
海野は続ける。
「でも、少しずつミスが増える。」
「周りがフォローする。」
「そのうち担当を減らされる。」
そして少し間を置く。
「そのタイミングで、“取られた”ってなる。」
ろみぃは静かに聞いていた。
海野はカップの縁を指でなぞりながら言った。
「たぶんね。」
「仕事そのものより。」
ろみぃが見る。
海野は言った。
「“自分の場所”が大事なんですよ。」
その言葉を聞いた瞬間、ろみぃの胸にすっと落ちた。
場所。
縄張り。
上山が言っていた言葉と同じだった。
海野は少し笑った。
「だから、ろみぃさん。」
ろみぃが顔を上げる。
「庶務、やりすぎない方がいいです。」
ろみぃは苦笑する。
「もうやっちゃってますね。」
海野も笑った。
「ですよね。」
そして少し真面目な顔になった。
「でも、やらないと回らない時ありますよね。」
ろみぃは小さく頷いた。
「あります。」
「昨日も来客準備…」
言いかけて、言葉を止める。
海野はすぐ理解したようだった。
「稲田さん?」
ろみぃは頷く。
「手が痛いって言ってて。」
海野は一瞬だけ、少しだけ苦笑した。
「出ましたか。」
ろみぃは思わず聞く。
「海野さんのときも?」
海野はゆっくり頷いた。
「ありましたよ。」
「体調が悪いとか。」
「手が痛いとか。」
「忙しすぎるとか。」
ろみぃは黙った。
海野は続ける。
「でも、不思議なんですよね。」
ろみぃが見る。
海野は言った。
「自分がやりたい仕事のときは、普通にできるんです。」
その言葉に、ろみぃの頭の中で昨日の光景が浮かんだ。
パソコンを打つ稲田の手。
両手でキーボードを打っていた。
ろみぃは何も言わなかった。
海野は優しく言った。
「まあ、決めつけるのは良くないですけどね。」
そして少し笑う。
「ただ、パターンは似てるなと思って。」
店の外では、昼休みの人たちが行き交っている。
普通の昼の風景だ。
でもろみぃの胸の中では、少しずつ警戒心が生まれていた。
海野が最後に言った。
「もし課長に何か言われたら。」
ろみぃが顔を上げる。
「慌てないでくださいね。」
ろみぃは聞く。
「どういう意味ですか?」
海野は静かに言った。
「“仕事を取られた”って話、たぶんまた出ます。」
その言葉に、ろみぃの背中が少し冷えた。
海野は続ける。
「でも大丈夫です。」
「ろみぃさん、ちゃんと見てる人いますから。」
ろみぃは少しだけ笑った。
「そうだといいですけど。」
海野は真顔で言った。
「大丈夫です。」
そして少し肩をすくめる。
「私もそうでしたから。」
その言葉を聞いたとき、ろみぃは少しだけ気持ちが軽くなった。
でも同時に、もう一つ思った。
もし海野が言う通りなら。
これから先、部署の中でまた何か起きるかもしれない。
そしてその中心に、
自分がいる可能性もある。