翌週の水曜日の朝だった。
ろみぃが出勤すると、稲田はもう席に座っていた。
だがいつもと少し様子が違う。
パソコンの前に座っているが、右手を机の上にそっと置いている。
まるで動かさないようにしているようだった。
「おはようございます。」
ろみぃが声をかけると、稲田はゆっくり顔を上げた。
「おはようございます。」
そして少し困ったような顔で言った。
「実は…ちょっと手を痛めてしまって。」
ろみぃは思わず聞き返した。
「手、ですか?」
稲田は右手を少し持ち上げて見せた。
「昨日からなんですけど、手首が痛くて。物を持つとちょっと…」
そう言いながら、指を少し動かしてみせる。
ろみぃは「そうなんですね」と答えたが、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
稲田は続ける。
「なので、今日はちょっと庶務が難しいかもしれません。」
ろみぃは一瞬言葉に詰まった。
庶務。
郵便。
備品。
来客準備。
全部、稲田の担当になっている。
ろみぃは静かに言った。
「そうですか。無理しないでください。」
稲田はほっとしたように頷いた。
「すみません。」
⸻
九時半。
郵便の時間。
誰も立たない。
いつもなら稲田が立つ時間だ。
でも今日は、稲田は席に座ったままだった。
右手を動かさないようにしている。
フロアに、ほんの少しの沈黙が流れる。
古沢が時計を見る。
上山もちらっと稲田を見る。
稲田はパソコンを見ている。
動かない。
ろみぃはその空気を感じながら、ゆっくり席を立った。
「郵便、取ってきますね。」
誰に言うでもなく言う。
古沢が少し安心した顔をした。
「ありがとう。」
ろみぃは郵便室へ向かった。
封筒を抱えて戻る。
机に並べる。
ふと気づく。
今まで稲田がやっていたように、封筒の向きを揃えて並べている自分に。
ろみぃは小さく苦笑した。
⸻
昼前。
コピー機の横で、古沢が声をかけてきた。
「ろみぃさん。」
「はい?」
古沢は少し声を落とす。
「稲田さん、手痛いんだって?」
「みたいですね。」
古沢は少しだけ首を傾げた。
「そうなんだ…」
その言い方は、疑っているわけではない。
でもどこか考えているようだった。
その時、上山が通りかかった。
「何の話?」
古沢が答える。
「稲田さん、手痛いんだって。」
上山は一瞬、眉を上げた。
「へえ。」
それだけ言って、ろみぃの方を見る。
ろみぃはなんとなく察した。
上山の視線が、ほんの少し笑っている。
⸻
午後。
来客の予定があった。
二時。
ろみぃは時計を見て立ち上がった。
給湯室へ行く。
お茶を準備する。
紙コップ。
トレー。
おしぼり。
準備をしながら、ふと思う。
今までなら。
これは稲田の仕事だった。
担当だから。
でも今は。
担当の人は席に座っている。
ろみぃは給湯室からフロアをちらっと見た。
稲田はパソコンを見ている。
キーボードを打っている。
両手で。
ろみぃは一瞬、手を止めた。
手、痛いんじゃなかったっけ。
ほんの一瞬だけ、そう思う。
でも何も言わない。
トレーを持って会議室へ向かった。
⸻
夕方。
ろみぃが席で書類をまとめていると、上山が椅子を回して言った。
「ろみぃ。」
「はい。」
上山は小さく声を落とす。
「今日さ。」
「はい。」
「庶務、全部やってたな。」
ろみぃは少し笑った。
「そうですね。」
上山はちらっと稲田を見る。
稲田はまだパソコンに向かっている。
上山は静かに言った。
「これな。」
ろみぃが顔を上げる。
上山はぽつりと言った。
「始まったかもしれない。」
ろみぃは聞き返す。
「何がですか。」
上山は椅子にもたれた。
「被害者モード。」
ろみぃの胸が、ほんの少しだけざわついた。