えーと、MAKのビーバー箱の話が途中なんですが、こちら今週末で終わっちゃうので、こっちが先で(^^;
国語の時間に「徒然草」が出てくるのって、中学からでしたっけ?私はわりと最初から好きだった覚えがあります。「源氏」や「枕草子」みたいな平安のがっつりした古文に比べてかなり現代語の感覚に近くて読みやすい文体、教訓めいた話が多い割にサラッとして押しつけがましくない語り口、あと、けっこう昔の人(鎌倉後期~南北朝期)なのに非常にリアルで皮肉の効いた感覚も好み・・・。
だから「徒然草」テーマの展覧会と聞いて楽しみだったんですけど、しかし「徒然草」はあくまで読み物であって、「源氏」や「伊勢」みたいな絵巻や屏風のイメージが全然無かったんで、果たして…?て感じだったんですが。思いのほか有るもんなんですね。構成も見せ方も良くて、かなり楽しめました。おススメ。今週末7/21(月・祝)までですが(^^; 連休ですし、お時間あればぜひ!です。
六本木・東京ミッドタウン サントリー美術館 ~7/21(月・祝)
展示構成は、
1. 兼好と徒然草
2. 徒然草を描く
3. 徒然草を読む
4. 海北友雪の画業と「徒然草絵巻」
1. 兼好と徒然草
2. 徒然草を描く
3. 徒然草を読む
4. 海北友雪の画業と「徒然草絵巻」
このうち、3. 「徒然草を読む」が今回の目玉、海北友雪「徒然草絵巻」二十巻の展示。絵になりやすい章段だけに絵が入るのが“徒然絵”の通例のところ、本作はほぼ全段に絵を付けているとのこと。大部の作品で見ごたえMAX。
展示的に素晴らしいのは各章段に本文を要約した解説パネルが付いている点で、単なる絵画・書鑑賞ではなく「アートとともに古典を読む」という、これは意外と新しい試みですね。
文学や音楽を主題にした展覧会ってよくありますけど、実際には「やっぱ美術館のキュレーターさんて、ブツにしか興味ないのね(^^;」って思うこと多いんですよね(笑)。一方では作品自体の鑑賞より解説を読んでいる時間が長くなりがちという本末転倒の危険もありつつなんですが、要約には原文のキーセンテンスも添えられて、文学作品そのものへのリスペクトが感じられる展示がVery Goodです。
文学や音楽を主題にした展覧会ってよくありますけど、実際には「やっぱ美術館のキュレーターさんて、ブツにしか興味ないのね(^^;」って思うこと多いんですよね(笑)。一方では作品自体の鑑賞より解説を読んでいる時間が長くなりがちという本末転倒の危険もありつつなんですが、要約には原文のキーセンテンスも添えられて、文学作品そのものへのリスペクトが感じられる展示がVery Goodです。
結果・・・(要約とはいえ)「徒然草」全段を読むことになるんですよね。やや駆け足、かつ無理やりなんですが(笑)。これは体験として素晴らしい。

海北友雪「徒然草絵巻」(第一巻)
「つれづれなるままに、日ぐらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
あまりにも有名な書き出し。ブログとかの書き出しもこの引用が多いですよね。「土佐日記」の「○○もすなるブログといふものを」と双璧(笑)。ちなみに「づれづれ草」「ズレズレ草」で検索しても一体いくつあるんだってくらい引っかかります(笑)
・・・「徒然草」、もう少し読んでみましょうか。一部わたくしRomanescaの適当訳・適当要約含むです。誤訳・誤要約あったらご容赦あるべし。
第59段: 「大事を思ひ立たむ人は、さり難く、心にかからむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり」
・・・この方にしてはわりと強めの口調。権威であれ怪異であれ、何ごともさらっといなす作者が、世を捨てるというネガティブな行動についてのみ積極的で、主張が強いのが面白い。
第72段: 「賎しげなるもの。居たるあたりに調度の多き」
・・・やかましいわ(苦笑)。ちなみにレオナルド・ダ・ヴィンチは「その人の頭の中を知りたければ、その人の住居を見ればわかる」みたいなこと言ってました。どいつもこいつも、やかましいわ。
第78段: 「・・・新しい人が来た際に、仲間内で言い慣れた事柄や物の名前などをわかっている同士で部分的に言い合ったり、目くばせして笑ったりなんかして、分かってない人に納得いかない思いをさせるのは、程度の低いやつがよくやることだ」(R訳)
・・・まったくだ(自戒)。
第88段: 「ある者が小野道風の書いた和漢朗詠集といって持っていたのを、「四条大納言(藤原公任)が選ばれたものを、(それよりだいぶ昔の人である)道風が書くというのは、時代が違うのでは」と言うと、「だからこそ、世にも有り難いものなんだ」と、いよいよ大切にした」(R訳)
・・・皮肉がベースにあるのは確かだけれど、だからどうだ、とは言わない兼好さん。受け止め方は色々あって。

海北友雪「徒然草絵巻」(第十巻)
友とするに悪き者七つあり。一つには高くやんごとなき人、二つには若き人、三つには病なく身つよき人、四つには酒を好む人、五つには武く勇める兵、六つには虚言する人、七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには物くるる友、二つには医師、三つには、智恵ある友。
・・・「病なく身つよき人」が友とするに悪き者だというのは、相当ネガティブ・シンキングですよね(^^;
この中では・・・はい、私は「虚言(そらごと)する人」ですっ(爆)
第125段:「仏事にある聖を招いたら説法が素晴らしくて、みんな涙を流した。導師が帰った後、聴聞の人達が「今日は特に尊く感じましたね」と感じ入っていたら、ある者が「何といっても、あれほど唐のイヌに似てらっしゃるから」と言ったんで、感激も冷めておかしかった。そんな褒め方って・・・」(R訳)
・・・このテの「がっかりだよ」系のネタが好き(^^
第206段:「評定の最中、牛が車から離れて庁内に入ってきて、大理の座に登ってもぐもぐしながら臥してしまった。重大な怪異だ、牛を陰陽師のもとへ遣わすべきだ、と議論していると、相国が「牛に分別はないし足があるんだからどこでも登るよ。貧乏役人が出仕に使う牛を取り上げることもない」 と、牛を持ち主に返し、そこの畳だけ取り替えて、別に災いもなかった、と」(R訳)
・・・次の207段の蛇の話や、91段の赤舌日の話とかもそうなんですけど、迷信の類に対してきわめて冷静。ツバメがフンをしたと言っては怪異、犬が迷い込んだといっては怪異、占いだ、陰陽師だ、みたいな時代の中、この兼好のリアリストぶりは結構凄い気がする。
・・・うーん、長くなったので、ここでいったん切ります ヾ(--;)おいおい、MAKも途中じゃなかったか。
それにしても、これが江戸時代も後期とかいうなら何の不思議もないんですけど、兼好法師って鎌倉末~南北朝期の人ですからね。まるっきり近代人、みたいな価値観には驚かされます。
上記の78段とか、いま現在の日常生活でごく普通に当てはまる話を読んでると、ここに700年の隔たりがあるなんて信じられない。
やっぱり、古典は折々読み返すべきものだなあと。特に「徒然草」は。そう思わされる展覧会。
