マネージャーは続けて私に問うた。

「あなたは何故、山の上ホテルに入ろうとしたのですか?」

「そ、それは……」

 記憶を取り戻すために……、などとはとてもじゃないが言えない。さて、どうしたものか。

 そういえば、山の上ホテルは締め切り間際の作家が缶詰になることで有名ではなかったか?それとも、ジンギスカン作戦を指示した牟田口廉也が帰国後に最初に泊まったホテルだったか?いや、違う。絶対に前者だ。

 なので、私はこう答えた。

「川端康成や三島由紀夫が缶詰になっていたホテル。読書家の私なら、一度訪れたいところです」

「ほう!あなたは読書家なのですか?」

 私がそう返答すると、川瀬佐重喜さんが話に割り込んできた。

「それで、あなたは最近の作家では、誰が好きですか?」

「そうですね。佐藤友哉さんとかですかね。他には……」


⇒「バイザー」~「ウィワクシア」~

「あ! 君、その人捕まえて!」
 俺がドレスの女に見ほれて、視線が入ろうと思ったホテルの中ではなく、今来た道のほうに走っていく彼女に向いていると、不意にホテルの中から声が聞こえた。ゆっくりと振り向くと、短髪で清潔そうな青年が、息を切らして俺のほうを向いていた。
「え?」
「とにかく! 走って!」
 息を切らせてその場にへたり込みながらも、俺を見上げる青年の目には、未だ彼女を追いかけようと言う闘志が見られた。大事な結婚相手か、それとも仕事仲間か。ホテルの中で何かが起きて、それに関係して大事な人物になったのか。俺は想像しうる限りの、彼女が追いかけられる理由を考え、その多さに事の重大性を理解し、そして体は自然、あのドレスの女のほうに向いていた。陸上競技が得意だったと言う記憶は無いけれど、あの青年の真摯なまなざしには逆らえないし、何より今の俺にすべきことなど何も無い。人助けをしておいて、困ることは無いのだ。
 どれだけ足が速いのだろう、あちらは陸上競技の選手のようで、俺が振り返るともう遠く向こうを走っていた。優雅に、颯爽と、彼女は強く走っていた。直線的に、音の壁を破るように、その足は強く地を蹴っていた。
 そして、
「あ」
「転んだ」
 彼女は足元に石に気づかず、砂煙をもうもうと上げて、下りのホテルからの山道の途中に倒れた。俺は短髪の青年と顔を見合わせると、彼のほうも少し驚いているようで、首をかしげながら立ち上がった。彼は頷くと、彼女のほうに走り出した。俺も、その背を追った。


「為替差益?」
「川瀬佐重喜です」
 ホテルの扉の向こうは、左側にカウンターがあり、右側はラウンジとなっていた。ラウンジには八つのソファと、十二個の椅子が置かれており、壁には三枚の小さな川と山と海の絵があり、はめ殺しの大きく広い窓からは、山と川と海が見えている。
 俺とドレスの女と短髪の青年は、その窓際から三メートルほど離れたところのソファ二つと椅子一つに座っていた。ソファに女が、もう片方に青年が、そして俺は椅子にもたれかかっている。
「彼女は俳優の川瀬佐重喜さんです。僕は彼女のマネージャーをしております、神流崎京三郎衛門です」
 青年は俺に向かって、自分と、ドレスの女の紹介をした。
 ……豪く面倒な名前だ、どっちも。
「それで……その俳優さんが、何で陸上選手並みに走っていたんだ?」
「はい……」
 そう言うと、ドレスの女ではなく、短髪の青年が俺の問いに答え始めた。なるほど、確かにマネージャーのようだ。
「彼女、何か怖い夢を見たようで。先ほど急に叫び声を上げたんです。僕が見に行くと、急に部屋の扉をあけて出てきて、走り出しました。止めようとしましたが、私を殴って、そのまま向こうに走って行ってしまったんです。おそらく、パニックに陥っていたのでしょう」
 パニック、か……。
 俺は彼女の顔を見た。未だに長い前髪のせいで顔が隠れてしまっていて表情は読み取れないが、見たところ冷静そうだ。とても元パニック状態の人とは思えない。それにすれ違ったとき、あの時もパニックと言えるような状態には思えなかった。
 ……俺の感性が狂っているのか?
「それで、あなたは?」
 マネージャーの神流崎京三郎衛門が振って来た話に、俺は現実に引き戻された。マネージャーは不思議そうな顔をして俺を見ており、川瀬佐重喜さんも俺を見上げていた。
「俺は……」
 ……誰なんだ?
 誰だったか思い出せない。あの白いときから、ずっと思い出せない。
 ……偽名か、偽名を使うべきなのか。
「な、七篠ジャックです」
「ジャックさんですか。面白い名前ですね」
「あはは、よく言われます」
 ……やっちまったよ、俺。


⇒「K」 ~「ジンギスカン作戦」~




そしてまた目が覚めた。

辺りはかわらず真っ白な世界・・・では無かった。




ここは、旅館の、前?


「山の上ホテル」と看板がたててある事から、ここは山の上ホテルだということが分かる。

―――さて、また突然の事だが、この状況をどうするべきか。
このまま様子を見るべきなのか・・・?


しかし俺は少々考えた後にホテルの中に入ろうと扉に向かった。

この奇妙な現象を説き明かす事が俺の記憶を取り戻す為には通らなければならない道だと感じたからだ。


それが茨の道か、三途の川か、そんな事はこの際どうでもいい。



しかし、俺が扉を開くよりも先に勢いよく扉が開いた。


中から真紅のドレスを纏ったロングヘアーの女性が出てきたのだ。

その女性の顔は髪に隠れて見えなかったが、なにやら急ぎの用事のようで、走りにくそうなドレスで颯爽と走って行った。













そのロングヘアーや皮膚にまで及ぶ紅いドレスを靡かせて。

⇒「くゐーん」 ~「為替差益」~