しかし、誰にはめられたんだ? 川瀬さんか? それとも、神流崎さんか? ひょっとして、二人ともか?

 そういえば、俺が彼女達と別れて、自動ドアに向かって歩いているときに、こんなことがあった気がする。


「韃靼蕎麦の踊り」

 背後で、川瀬さんが小さな声で、何かをつぶやいた。

 俺は彼女のほうに振り向き、尋ねる。

「ん、何か言いましたか?」

「い、いえ。何も」

 彼女は何事もなかったかのように振る舞っているが、顔には焦りの色が浮かんでいる。

「あ、そうですか」

 結局、俺はそう答えて、ドアのほうに向かっていったのだ。


 そう、あのときだったのだ! 彼女が「韃靼蕎麦の踊り」とつぶやいたあのとき! あのとき彼女がつぶやいた言葉が、自分をこの不思議な世界へといざなったのだ。

 そこで、俺は何かに違和感を覚えた。

 何だ?

 何だ!?

 思い出せ!

 思い出せ!!


⇒「バイザー」~「原画展」~

 ……何か、引っかかる。
 何だ、何が引っかかる。
「どうかしましたか?」
 俺の顔をのぞくのは、川瀬さん。目の色を白黒させて、見上げてくる。
「冷や汗かいていますよ。あ、これ使います?」
 差し出されたハンカチを手に取り、俺は顔を拭いた。確かに冷や汗をかいている。
 何かが、何かが引っかかる。何なんだ、この感じは……。
 俺は目の前の、彼女の顔を見た。静かな笑いを含んでいるその顔に、少しの間見とれる。
 そして、思い出した。
「ほんと、大丈夫ですか?」
 再び川瀬さんの、真摯な言葉が来た。
 俺は答えた。
「えぇ、大丈夫ですよ。少し頭痛がしましてね。ほら、よく小説とかで、記憶を戻りそうなとき、頭が痛くなったりするじゃないですか。もしかして、それとかじゃないですか?」
 俺は微笑みを返して、彼女に答えた。なるほど、と川瀬さんも、しっかりと頷いている。
 俺はここぞとばかりに続けた。
「さて、じゃ、俺は少し外を見てきます。もと来た道を見ていれば、もしかしたら思い出せるかもしれませんし。三十分くらい歩いて無理でしたら、戻ってきますよ」
「そうですか? じゃ、私達はこれで」
 俺は彼女達と別れた。
 自動ドアの向こうの暗闇は、どろりとしているようだった。硝子越しに見るそれは、形を成さない、不思議なもの。言うなれば黒い炎とでも言うべきか。気が滅入るほどの色である。
 俺は深く息を吸うと、自動ドアを越えていった。
 その先には、セピア色の世界があった。
「だんなあ、象です、押し寄せやした」
 後ろから、声が聞こえる。
 振り返るともうそこには自動ドアなど跡形も無く、ただ、無限に続く砂漠と、その中にぽつんと建った一軒の屋敷が見えるばかりである。
「どこだ、ここ」
 何か嫌な気分だ。
 足元がどろりとした、そんな不思議な世界に足を踏み入れている気がする。
 現在地はわからない。
 俺が誰かもわからない。
 唯一つ、判ることがあった。
「……はめられた」




⇒「K」 ~「韃靼蕎麦の踊り」~

「今気に入っててるのが、屯田島イレブン太郎さんの作品ですかねー・・・」

「・・・・・・はい?」
為替、いや川瀬さんが聞き返す。

「屯田島シリーズって知りませんか?現代ギャグ小説の先行者ですよ!」

「・・・・・・はあ。」

為替、いや川瀬さんがキョトンとしている。
しかし更に俺は続ける。

「この方は本当に凄いんですよ!最近ヒットした作品は『ウィワクシア霧雨のウォーキングレッスン』っていう作品で、主人公である霧雨が『カバとサファイアと久留米・ザ・山科』のウィークポイントを指摘するところなんてもう・・・」



ん、なんだ、この空気は。

為替、いや革製、いや翡翠、ん?まあいい。
まあ、為替だったか革製だったかいう人が、俺の前で苦笑いをしているのが分かる。

・・・なんか俺、オタクだと思われた?

「ぷっ」

マネージャーが顔を赤くして笑っている。
立ち去りたい。あぁ、立ち去りたい。

「ふふ、恥じることはありませんよ。立派なご趣味じゃありませんか。神流崎には後できつく言っておきますんで、気に病まないでください。」

と、川瀬さんが柔らかい手で俺の手を握ってくる。
紅いドレスと柔らかい手・・・まるでゼリーのようだ。

「では、私はそろそろ・・・」

川瀬さんがそういって席を立つ。しかし次の瞬間、
「あ、そういえば。」

何かを思い出した様だ。


「早く、記憶が戻られると良いですね。」

それはそれはとびきりの笑顔だった。

「はい!」

それに答えるように、とびきりの笑顔でこちらも答えた。













・・・・・・んん???

⇒「くゐーん」 ~「だんなあ、象です、押し寄せやした。」~