校長室だより~燦燦~ №326
おせっかい
2021.3.19
私は、自分のことを「おせっかい」だと思うことがある。出会った以上は、その人のためにしてあげられることはないかと考えてしまう。迷っている人がいれば、背中を押してあげたいと思ってしまう。 伊集院静さんのエッセーに、こんな文章があった。紹介する。 それでも若い時にだけ、将来のことは見えなくても、前に踏み出さねばならない時がある。 その行動をするかしないかを、後になって後悔すると言う人がいるが、そうではない。 後悔などすることはどうでもよくて、大切なのは、そこで踏み出すかどうかは、己の人生の時間を見られるかどうかにある。 機を失うと、再び、そういう機会が来るということはまずない。 それを判断するのは自分だが、若い時には、果して今がそうなのかを見る目はまずない。 そこで誰かが背中を押してやるという、おせっかいが必要になるのである。そのおせっかいを、おせっかいに見るかどうかも、当人次第なのである。それでもおせっかいは、ないより、あった方がいいのである。 恩師、師匠、先輩、同輩、後輩である場合もあろう。 さらに極端に言えば、まったくの他人、見ず知らずの人の一言で、踏み出すこともある。
私も、伊集院さんの言うことに賛成である。私がおせっかいになってしまうのは、自分の経験によるところが大きい。人との出会いにより、背中を押され、成長させていただいた。だから、今度は自分がと考えるわけである。 ここ数年でわかったことがある。おせっかいの相手は、誰でもいいわけではないということである。私は出会った方々には、平等に公平におせっかいをと考えてきた。そうしないと相手の方に失礼だと考えてきた。
だが、これは間違っていた。相手は誰でもいいわけではないのである。やはり人は見るべきである。相手の気持ちにスイッチが入っていなければ、心に火がついていなければ、やめたほうがよい。少なくとも、その人にとって、今は「おせっかい」を必要とはしていないときなのだと理解するべきなのである。そうでないと、ただのありがた迷惑になってしまう。 確かに、過去を振り返ってみると、うまくいかなかった「おせっかい」がある。きっと、その人にとっては“出会い”ではなかったのである。私は、過去の「おせっかい」の成功体験から、多くの人にと考えてしまった。これが間違いだった。 「この人は」と思える方、あるいは、「この人には今がチャンス」と思えるならばいいが、そうでなければやめておいたほうがよい。悲しいことだが、ものごとにはタイミングというものがある。 もう一つは、私だからうまくいかなかったということがある。相手からすれば、おせっかいをやくのが誰でもいいわけではないだろう。それ相応の力量や経験、人間性というものが必要になるに違いない。人のおせっかいをやく前に、もっと自分のことを何とかするべきだと思い知らされた。