園長通信~こころ~ №495                                                             
                       充実度                                                                                                    2026.7.17

    気がつけば、第1学期終業式の日になっていた。この1学期は、早かった。5月ごろから加速度的に時が過ぎていった。コンビニのCJ Monmo4月号がすぐに5月号になり、6月号、7月号へとかわっていった。市政だよりもすぐに届いた。もう市政だよりか。早いなあ。毎月そうだった。    

     幼稚園に来て3年目になる。3年目は危険である。そう思っていた。すぐに飽きるタイプである。何かをしていないといられない。そんな私を救うかのような出来事が続いた。                    

     3年目ということは、学期でいうと、7回目となる。今までの充実度を振り返ってみた。たいていは、1年目が一番よくなる。なぜなら、一生懸命になるからである。慣れない職場、見通しが立たない仕事、どれも必死にならざるを得ない。                              ところが、今回は違った。7回目の今学期が一番いいような気がする。園での保育に関しては、過去2年間、直接口を出すことはあまりなかった。それよりも、先生方の生き方や考え方についてのアドバイスが多かった。                                                                   今学期は、「こどもかいぎ」に救われた。これを導入したおかげで、直接、保育に関して話すことができるようになった。きっかけをもらった感がある。先生方も、真剣に取り組んでくれた。こどもかいぎのことを考えることが、結局は、他の保育にもつながっていく。こどもかいぎを間口にしているだけである。子どもたちも、回数を重ねるごとに成長している。子どもという存在はすごい。そのことを改めて教えられた。                                                          

 いつの間には、週に5回も6回もナイター練習に行くようになった。これも今学期の充実度に貢献している。いつも練習に来てくれる中学生には感謝しかない。中学生がうまくなり、成長していく姿を見られるのが、どれほどありがたいことか。送迎してくれている保護者の皆さんにも感謝している。                                                                                相変わらず文章は書いている。もはやルーティンのようなものである。もう本を出すこともないだろうと思っていた。すると、こちらの気持ちを見透かしたように話がきた。「本を出しませんか」当然、エッセイ集だと思った。そしたら、国語の本だった。さすがに今回が最後だろう。そう思って4冊目となる書籍の原稿を書き始めている。                                                

 長い人生の中でも、画期的な出来事があった。8㎏も体重が落ちた。20代前半の体重に戻った。これも、充実度に一役買っている。数字でわかるのはいい。未だに減ったままの体重を維持できている。何かを我慢している、何かに取り組んでいるというのがいい。
 幼稚園7回目の学期は、思いの外、充実していた。明日からは夏休みとなる。こちらも充実度を意識しながら過ごすようにしていきたい。                                                  
 

園長通信~こころ~ №494                                                             
                     人のためにがんばる                                                                                                   2026.7.16

    人は、自分のためには、さほどがんばれなかったりするが、人のためになるとがんばることができたりするものである。そのいい例が親である。親は、子どものためになると、がんばることができる。                         

    中学生で、人のためにがんばることができる人がいる。いつも一緒に練習しているペアである。県北大会を勝ち抜いて、7月24日(金)県大会個人戦に出ることになった。県北地区には、小学生のうちからソフトテニスを始めているクラブチームのペアがたくさんいる。その中で、ベスト8に残り、県大会に出場するのは至難の業である。快挙というしかない。
 彼女たちは、中学1年生のうちは何もしていない。普通に普通の部活動に参加していただけである。中学2年生になり、6月から私が指導するようになった。とはいっても、平日の部活動にはほとんど行くことはできない。土曜日の練習と、週に2回ほどのナイター練習で伸びていった。これも、冬の間は行っていない。毎日のように一緒に練習するようになったのは、中学3年生の4月からである。したがって、ここ2か月で強くなっていったことになる。                            

     練習量は、クラブチームにはかなわない。大会などの試合経験も圧倒的に少ない。それでも、クラブチームのペアに勝ち、県大会に出ることができたのはなぜだろうか。とびぬけた運動能力があるわけではない。一番は、気持ちである。心技体の“心”である。そういう指導をしている。      

     もちろん、限られた時間の中での練習は、いろいろ考えてはいる。そして、実際にうまくなっていった。彼女たちは、まっすぐなのである。試合で勝ちたい。うまくなりたい。県大会に行きたい。その気持ちがまっすぐなのである。ソフトテニスが好きで、高校でも続けたいと思っていることも大きいだろう。だが、一番は、まっすぐな気持ちのような気がする。
 県北大会を見には行かなかった。大会が終わり、親御さんから聞かされた。「勝って高澤先生を喜ばせるんだ」と言っていたそうである。このときわかったことがある。「ああ、だからこのペアは強いんだ」人のためにがんばることができる選手だったのである。人を信じることができる選手なのである。信じる人は強い。信じられるものがある人は強い。そう思う。                      

     信じるものは私でなくてもいいのだが、彼女たちの場合は、たまたま私だったということであろう。私は思う。彼女たちは、親御さんや顧問の先生、後輩たちを県大会の舞台に連れて行ってくれる存在なのである。私も、教え子や娘たちに、東北大会や全国大会の景色を見させてもらった。今でも感謝している。                                                               
     県大会個人戦は、出て終わりではない。彼女たちも私も本気で勝とうとしている。この年になって、本気で指導ができるとは思っていなかった。県大会は遠い存在になってしまったと思っていた。少ない練習で結果を出す。そこには、指導者としての努力や工夫が必要となる。彼女たちのおかげで、毎日ずっと考えている。ありがたい。感謝している。                                    
    県大会では、ぜひ私だけでなく、親御さん、顧問の先生、後輩たちのためにがんばってほしい。その先に2人の成長がある。そして、それが中学時代の忘れられぬ思い出となり、その後の人生を支えるものとなる。人のためにがんばることができる人は強い。強い選手は、人のためにがんばることができる。ぜひ2人には、強い選手になってほしい。

園長通信~こころ~ №493                                                             
                     サングラスその2                                                                                                  2026.7.15

    ずっと欲しかったものがある。だが、その欲求は、それほど強いものではなかった。なぜなら、とりあえずモノはあったからである。それは何か。サングラスである。車には、いつもサングラスを置いている。愛用のサングラスと言いたいところだが、愛用はしていない。いつでもかけることはできる。ところが、めったに使うことはない。
 季節は初夏、5月になると、たまにはサングラスでもしてみるかとかけてみる。急に視界が暗くなる。それでも、晴れていればよい。曇りはよくない。雨では話にならない。週末のドライブ、お天気は晴れである。こういうときは、サングラスで気分がよくなる。ところが、トンネルに入ると事態は急変する。見えない。こわい。恐怖感に勝てず、すぐに外すようになる。
 こんなことをもう何年も続けてきた。愛用できないサングラスのレンズは黒い。あぶない刑事に近い。いつも思っていた。今風のものを買えばいいのではないか。だが、切迫感がない。緊急性を感じない。なければないで困らない。
 駅の西口に行った。新しいお店ができている。とりあえず入りたくなる。メガネ屋さんがあった。サングラスが並んでいる。一つのものが目に飛び込んできた。こうなると決まりである。結論は出ている。欲しい。買いたい。衝動買いである。
 ここで、一度冷静になってみる。今までの衝動買いの勝敗を考えてみる。負け越しているのではないか。買ったはいいが、やっぱりやめればよかった。それが衝動買いにおける負けである。今回も負けるのか。                               

    他のものも見てみる。ここからは、勝ち抜き方式の戦いが始まる。最初に決めたものと新たなものとを比較して、どちらがいいかという勝負である。これは形だけの戦いである。なぜなら、最初のものが負けることはない。一応、他のものも検討しましたよと自分を納得させているだけのことである。                                                                                私の心を揺さぶった代物は、形はシンプルでレンズは薄いブルーのものである。これだと相手から自分の目は見えてしまう。よくわからないが、紫外線を99.9%もカットしてくれるらしい。本当だろうかという思いはありながらも、気に入ってしまった。そして、何といっても軽い。かけ心地がいいのである。
 目の前では、同じものをかけた目黒蓮が微笑んでいる。もう決まりである。こういった買い物をしたのは久しぶりである。衝動買いというと久しくしていない。そもそも欲しいものがない。
 無事、購入の運びとなった。当然、すぐにかけてみる。軽くていい。それからは、車に乗るときには必ずしている。したままでコンビニに入る。この前は、朝、職員室を開けて中に入り、鏡を見て初めてサングラスをしたままであることに気づいた。それくらい、かけているという感じがしない。今回の衝動買いは、間違いなく勝ちである。ようやく長年のサングラス問題を解決することができた。                               

園長通信~こころ~ №492                                                             
                        振り返る                                                                                                    2026.7.14

    この前、ふと気づいたことがある。ここのところ、その日その日のことを振り返るようになってきた。そんなことは当たり前だろうと言われそうである。正確にいうと、「あれはこうすればよかった」と反省するというよりは、「とりあえず何事もなくてよかった。失敗しなくてよかった」と思っているのである。                                                     

    一つ一つの出来事を振り返りながら、「これは大丈夫だった」と納得しようとしているようにも思える。意識してそうしているわけではない。いつの間にか、こうなっていた。
 

 そこで、自己分析してみた。どうもいい傾向のようには思えない。失敗したくない自分がいる。ということは、消極的になっている。すなわち守りに入っているのか。だとしたら、それはなぜだ。なぜ、そんなことをする必要があるのか。                               

    ずいぶんと年を取った。人生経験もそれなりにある。にもかかわらず、失敗していては、恥ずかしい。無意識のうちに、そんな気持ちが働いているのだろうか。そんなことを考えた。人前で話す仕事やソフトテニスの指導、職場でのことなど、自然と振り返っている。                        

 

    今までだったら、「ああすればよかった」「こうすればよかった」と、落ち込むことが多かった。だが、今は違う。「大丈夫だった」「まあまあだった」「とりあえずよかった」と安心しようとしているように思える。                       
 

    果たして、これはいい傾向なのか。張り切りすぎずに、穏やかに過ごすには、いいのかもしれない。だが、何だか勝負をしていないようで、嫌なのである。逃げているわけではない。無難に済まそうとしているのが気になる。                                                             

     その日にあったことを一つ一つチェックしている。「あれはOK」「これはまずまず」といった具合である。そして、自分を安心させようとしている。さすがに、「ああすればよかった」と思うことはある。だが、以前ほどその後悔の念は強くはない。                     

    結局、自分は、どんな生き方をしようとしているのか。平穏無事を目指しているのか。いや、自分がそんなことを考えるはずがない。考え方や判断力を問題にしているのではないか。そう思えてきた。考え方や判断を間違えなければ、物事はそれなりにうまくいく。
 

 今まで判断を誤ってきたことが、人生の中であった。きっと、もう判断を誤りたくない、失敗をしたくないという思いが自分の中にあるのであろう。そんな自分を支えているのが、物事に対する考え方である。そう考えると、判断力のトレーニングをしているようにも思える。
 

 今の状態が、いいことなのか、それともよくないことなのかはわからない。とりあえず、何もしないで成り行きに任せようと思う。そのうち、また自分の中で変化が起きるかもしれない。もしかしたら、そうなる自分を待っているのかもしれない。                                        
 

園長通信~こころ~ №491                                                             
                      夏休みの宿題                                                                                                   2026.7.13

     気づけば、夏休みが近づいてきていた。もうまもなくである。夏休みというと、長い休みというのはいいのだが、それだけではすまない。宿題というものがついてくる。その代表格が、読書感想文と理科の自由研究だろうか。図画工作の絵もあった。どれも嫌だった。やりたくなかった。
 

     私の記憶というか印象では、いずれもまともな事前指導はなかったように思う。やり方など関係なく、宿題なんだからやりなさい、出しなさいといった感じである。思うに、読書感想文も自由研究も、普段の授業で行っていることと比べると、かなりジャンプアップした内容である。無理がある。                                                                             

     夏休みというと宿題というのが染みついているせいか、教員になってからも、夏休みになると、何かしなければという思いにかられてきた。実際に宿題を出されたときもあるが、自分で宿題を設定してきた。自分に宿題を出すというと、いかにも自主的に聞こえる。だが、これには弱点がある。やらなくても、誰にも何も言われない。自己嫌悪に陥るだけである。悲しいことに、やらなくてもさほど困りもしない。それがわかっているからこそ、サボるのだが。                            

 

    ここ数年も、この年になっても、夏休みになると宿題を考えたくなる。子どものときの経験は大きいと言わざるを得ない。たまには、ゆったりとすればいいだろう。そうささやく自分がいる。その一方で、1か月以上もあるんだ。何しないではもったいないだろう。だめな自分になってしまうぞとささやく自分がいる。                                                 

     じっとなどしていられないタイプの人間だとわかっている。結局、何かしらの宿題を課すようになる。宿題がないと心配なのかもしれない。何もしていない自分が嫌なのであろう。
 

 今年の夏休みはどうするのか。すでに決めてある。4冊目となる書籍の原稿を書き終える。この原稿は、章立てになっており、それぞれの章に関連性がある。一つ、一つ、独立した作品となるエッセイとは違う。したがって、短期間で一気に書き上げたほうがよい。そのほうが、ぶれないし、筋が通る。だから、多少は時間に余裕がある夏休みがよい。                                    

 

    本当は、一月の間、ゆったりと過ごすのが夏休みなのであろう。いわゆるバカンスである。イタリアの人は、別荘をもっている人が多い。夏のバカンスになると、その別荘へと出かけていく。街中から人がいなくなるのである。憧れる。                                       

    試しに、軽井沢に1か月いてみようか。そんなことを考えることがある。しかし、わかっている。どうせ宿題をやりたくなるに決まっている。子どもの頃に受けた教育の影響は大きい。