沢と澤                                                                                                                               

 子どもの頃から大人になるまで、ずっと「高沢正男」として生きてきた。その期間は、20年を超える。ところが、突如として、「高澤正男」になった。                                      事ある度に、父親に聞いたことがある。「本当はどっちなのか」高校入試の提出書類、中学校の卒業記念品としてつくった印鑑、大学入試の提出書類、そのたびに「どっちでもいいんだ」父親はそう答えた。「沢」でも「澤」でもどちらでもいい。そんなことはないだろう。ずっとそう思ってきた。
 

 もう一つ、疑念があった。家にある印鑑は「髙沢」となっている。いわゆる「はしごだか」である。本当は、「髙澤」ではないのか。にもかかわらず、普段は「高沢」と書いている。本当にこれでいいのか。                                                                              

 

 この「沢」が嫌いだった。元々字が下手な上に、この字はバランスがとりにくい。加えて、「高」と「沢」の2文字を書いた後に、「正男」と書かなければならない。嫌だった。今でも好きにはなれない。正しい男のわけがない。       
    

     教員採用試験に合格し、赴任先が決まった。4月1日に辞令を渡された。担当の方からお話があった。「名前に間違いがないか確認してください」間違っていた。「高沢正男」と書いてあった。 その数か月前から、私は「高澤正男」になっていた。何のことはない。役所で戸籍だか住民票をとったら、「高澤」だったのである。晴れて、私は「高澤正男」となったわけである。長年の疑念は、ようやく払拭された。                              
 修正された辞令をいただき、無事に「高澤正男」として教員生活をスタートさせることができた。したがって、「高澤正男」と書くようになったのは、教員になってからである。「澤」は画数が多い。だが、バランスは取りやすい。「沢」よりは好きである。                                 

 

    ところが、新たな「沢」問題が勃発した。新聞では、「澤」は「沢」と表記される。3月末の異動の時期になると、私の名前が新聞に載ることがある。すると、知り合いの方から、「間違っていましたね」と言われてしまう。仕方なく、説明をする。まあ、いいか。新聞の中だけでも、懐かしい「高沢正男」に会えるのもわるくはない。この紙面では、「高澤正男」にしていただいている。ありがたい。やっぱり名前は正しいほうがいい。                                    
 

園長通信~こころ~ №449
                     現在志向バイアス                                                                                               2026.5.14
                                                                                    
     人生の残り時間を知ったら何をしたいか。こんなことを聞かれたら、何と答えるだろうか。ある調査では、多いほうから、家族と過ごす、旅行に行く、大切な人と過ごす、趣味に費やすとなっている。なるほど、そうなるか。                                                              この結果は、裏を返せば、家族や友人などの大切な人と過ごす時間が足りないということを物語っている。そうなる理由は、様々あるだろう。多くの人は、明確な理由がないままに、自分にとって大事なことを先延ばしにしてしまっているということはないだろうか。
 いつまでも先送りにしていると、大事なことをするための時間はどんどん減ってしまう。なぜそうなるのか。自分の残り時間が意識されていないからである。これは仕方がないことだろう。通常は、自分の残り時間を意識することはあまりない。                      我々には、まず目についた事柄を重要と判断してしまう傾向がある。これは、「現在志向バイアス」と呼ばれるものである。実は、それほど重要な事柄ではないのに、目前に提示された課題が大事に思えて、とりあえず片づけてしまいたくなる。こういった日々を過ごしていると、大事なことが何かを考えることも、その大事なことに取り組むことも、どんどん後回しになってしまう。その結果、大事なことを実行するのに必要な時間がなくなったり、そのためのタイミングを逃したりしてしまう。
    現在志向バイアスは、将来の大きな利益よりも、今すぐ得られる小さな利益を過大評価してしまう心理的な偏りである。貯金よりも浪費、勉強よりも娯楽など、長期的に損だとわかっていても目先を優先させてしまう傾向を指す。                                                     これは、日常生活のいたるところで見られる。ダイエットよりも今日だけと甘いもの食べる。将来のための貯蓄よりも衝動買いを優先させる。ジムを契約しても通わず先延ばしにしてしまう。「明日の百よりも今日の五十」のことわざが示すように、人間には将来の利益に比べ、現在の利益に過度の重みづけをする傾向がある。                             明日からがんばろう、今日くらいよいじゃないか、がんばった自分へのご褒美だ。このような言葉を並べて、自分に言い訳をしてしまう。逆に、今すぐダウンロード!、本日限りの限定品!明日から結果が出るダイエットサプリ!などは、現在志向バイアスを突いたキャッチコピーなのではなかろうか。人間の脳のクセをうまく利用していると言わざるを得ない。                          

    人生の残り時間を知ったら何をするだろうか。今のところ明確な答えは出ない。それでも、現在志向バイアスへの対策は考えていきたい。そのほうが、いい人生に近づくような気がする。      
 

園長通信~こころ~ №448
                      おいしい記憶                                                                                                 2026.5.13
                                                                                    
    今までおいしいものをたくさん食べてきた。だが、記憶に残っているものとなると、非常に少なくなる。その多くは、旅先でのものや家族の記念日やお祝いでのものとなる。順位をつけてみた。輝く第1位はというと、あの一品となる。                                            息子が大学に合格したお祝いだった。年に数回は通っているイタリアンのお店に行った。このお店には、何かの記念日やお祝い、すなわち特別な食事という機会にお世話になっていた。いつものコース料理を頼んであった。料理に合わせたワインは、いつもシェフにお任せしている。          

     メインの順番となった。目の前に、料理が運ばれてきた。肉料理である。牛肉というのはすぐにわかった。フィレステーキのようだった。その上に何かが乗っていた。シェフから説明があった。フォアグラだった。その上にも乗っている。トリュフだった。トリュフは、イタリアに住んでいたことがあり認識していた。                    いつもよりも随分と豪華だな。そう感じた。もしかしたら、我が家のお祝いに対してのサービスだろうか。そんなことを考えた。家族4人でいただいた。食べながら結論づけたことがある。今まで食べた中でまちがいなく一番おいしい料理だった。                 こういった一品が、本格的な料理というのだろうか。家族みんなで満足しながらいただいた。自然と笑顔になる。同時に、多少の驚きがあった。こんなにおいしいものがあるのか。息子と娘は、きっとそう思ったことだろう。長く生きている親でさえ、そう感じたのである。若者であれば余計にそうなるだろう。                                                         息子のお祝い、家族4人、通い慣れたお店、シェフの心遣いなどの要素がすべてそろうという稀な状況での出来事だった。ちょうどいいタイミングで、家族にとって最高のお料理に巡り合うという幸運に恵まれた。                                                                        

 このお料理について調べてみた。牛ヒレ肉のロッシーニ風というらしい。ロッシーニ風という名前は、19世紀に活躍したイタリアの作曲家ロッシーニに由来している。ロッシーニは美食家でもあったらしく、この料理を考案したのだそうだ。                     いつだったか、家族で話しているうちに、今まで一番美味しかったものは何かという話題になった。家族4人の答えは一致していた。そう、あのイタリアンレストランでいただいた、牛ヒレ肉のロッシーニ風である。満場一致である。それだけのおいしさとインパクトがあった。家族4人には、いつまでもおいしい記憶として残るだろう。それは、家族にとって幸せな記憶でもある。        
 

園長通信~こころ~ №447
                    ビッグマック指数                                                                                            2026.5.12
                                                                                    
    この前、久しぶりに、辛みそラーメンが有名な米沢のお店に行った。いつもならば、迷わず辛みそチャーシューメンを頼む。だが、この日は躊躇した。また値段が上がっていた。1400円になっていた。1400円かあ。しばしため息が出る。急に元気がなくなり、赤湯辛みそラーメンにした。1000円である。よく考えれば、これでも十分である。                                

     仙台に行く。久しぶりに牛タンを食べるか。お店に入る。ノーマルな牛タン定食が、2000円を超えている。世の中のものの値段が上がっているのは理解している。頭ではわかっている。だが、ついていけない。おいそれとは、受け入れられない。時代に置いていかれた人間である。          

     ビッグマック指数というものがある。マクドナルドのビッグマックの価格を比較することで、各国の経済力や物価水準などを測る経済指標である。これにより、世界中でほぼ同じ材料と方法で作られているビッグマックの価格を比較することで、各国・地域の物価水準の目安とすることができる。指数が高い国ほどビッグマックが割高、低い国ほど割安と判断される。                      

    2026年1月時点での世界1位はスイスである。円換算で1440円である。辛みそチャーシューメンに匹敵する。一方、日本は480円である。スイスの1/3である。すばらしい。こうしてみると、日本は安い。                                                                        この指数がいいのは、1つの商品で世界を比べられる点である。ビッグマックは各国でほぼ同じ品質、似たようなレシピで売られており、原材料費や人件費など、その国のコストが価格に反映される。そのため、おおざっぱに見る物差しとして扱いやすい。何より、身近でイメージしやすい。  

    今までは、マクドナルドへ行くと、2つの点からビッグマックを頼むことを躊躇していた。1つは、マクドナルドの中では、価格が高いという点である。もう一つは、ビッグマックを食べることへの罪悪感である。勝手に体によくないと思っている。              今では、ビッグマックは500円である。それでも安いと思ってしまう。シンプルなハンバーガーは190円である。チーズバーガーでも240円である。かなり魅力的な価格設定である。未だに100円バーガーのよき時代をひきずっている人間である。自分の中では、30年以上もの間、値上げがされていないのかもしれない。                 さすがに、そろそろ慣れなければならないのだろうか。辛みそチャーシューメンや牛タン定食のことを思いながらビッグマックを食べる。そんな日がくるのかもしれない。これからも、ビッグマック指数からは目を離せない。                                                          
 

園長通信~こころ~ №446
                    シンボルツリー                                                                                                2026.5.11
                                                                                    
    幼稚園のシンボルツリーともいえる桜の木がある。この木がピンチを迎えた。昨年のことだった。年老いたこの桜の木に、倒れてしまう危険性があることがわかった。倒木のおそれである。専門家に見てもらった。危ないので、伐採したほうがよいという診断だった。                          

    この幼稚園から、この桜の木がなくなってしまうことをイメージしてみた。さびしい。ちょうど入園式の頃に満開になってくれていた。この木の下で、みんなでお団子を食べながらお花見をした。すべてが、思い出に変わってしまう。                                             業者の方に相談してみた。何とか残せないでしょうか。本当は切ってしまったほうがよいらしい。そこを何とかお願いして、道路に面しているほうは切ってしまい、反対側を残してもらった。春になった。桜の季節が近づいてきた。果たして、どれほどの花が咲くのだろうか。だいぶ小ぶりになってしまうだろうか。
 今年も、入園式の頃に満開となってくれた。4月6日は、青空が出た。意外と、立派な桜だった。木は切られてしまったが、その分のエネルギーを減ってしまった花に込めているかのようだった。今までと変わらない美しさだった。これならば、お団子を食べながら、お花見ができる。そう思えた。 
 今年度は、今まで以上に園児が減ってしまった。お花見をしても、小ぢんまりとしている。桜も小ぶりになった。ちょうどいいのかもしれない。桜を残してくれた業者の方に話したことがある。この幼稚園は、あと数年なんです。その間だけでも、この桜を残したいんです。                  

     幼稚園がなくなるという方向性は決まっている。だが、いつなくなるかはまだわからない。園には、子どもたちがいる。その数が少なくなっただけのことである。子どもがいる限りは、子どものためにベストを尽くすだけである。少ないからこそ、できることもある。ないものねだりではなく、あるものさがしである。                                            今まで以上に、魅力あふれる幼稚園にしていかなければならない。青空の下、健気に咲く桜を見ながら、そんなことを考えた。小ぶりな桜が、何かを訴えかけているようだった。やっぱり、桜には青空が似合う。青空には、子どもたちの笑顔が映える。        あれから、一月が経過した。桜の木は、花びらが散ってしまうと、元の痛々しい姿に戻ってしまった。それでも、また1年後に向けて、エネルギーを蓄えてくれているのだろう。来年も、子どもたちを応援するように、きれいな花を咲かせてくれるはずである。この桜の木とともに、これからも歩んでいきたい。この木は、やはりシンボルツリーである。幼稚園には、なくてはならないものである。職員室から眺める桜の木が、そう思わせてくれた。