園長通信~こころ~  №510                                                             
                         商店                                                                                                                  2026.9.11

    幼稚園の斜め向かいに〇〇商店がある。いや、あった。そのお店は、6月30日をもってその長い歴史に幕を下ろした。                                                                    

 

   私が幼稚園に来た3年前には、幼稚園のすぐ目の前に、郵便局、〇〇商店、△△商店が並んでいた。△△商店には、かなりご高齢のご主人がいた。「なわとび50円」という貼り紙が何とも味わい深かった。このお店は建物はそのままだが、すでに入口が開くことはなくなってしまった。      

   

    〇〇商店は、この地域の駄菓子屋さん的存在だった。幼稚園の制服や運動着も扱っていた。放課後の時間帯になると、小学生がよく来ていた。小さい子や中学生もいた。幼稚園の子どもたちも、何かとお世話になっていた。幼稚園にとっては、なくてはならない存在だった。このお店の入口も開くことがなくなってしまった。                                                            

    〇〇商店は、女性の方が切り盛りしていた。朝、幼稚園に出勤するタイミングで、よくお会いしていた。まだお店が開く時間ではない。にもかかわらず、なぜお会いするのか。散歩ではない。毎朝、お店の前だけなく、道路の反対側まで、きれいにほうきで掃いてくださっていたのである。そこは、毎朝、子どもたちが通る所だった。そのほうきさばきといったら、それはそれは見事である。年季が入っている。
  

    秋になり、落ち葉の季節になる。朝になると、このお店の前も道路の反対側にも落ち葉はなかった。きれいに掃かれていた。これが、冬になり雪が積もると、雪かきに変わった。私にとっては、雪かき仲間なのである。雪かきも腕が違った。かいた後がきれいなのである。熟練の技である。    

 

    〇〇商店の前は、今も毎朝きれいになる。お店は閉まったが、朝のお掃除は続いている。そこには、何か“こころ”を感じるのである。「一燈照隅(いっとうしょうぐう)」だろうか。「一隅を照らす」であろう。自分のいる場所を小さな灯で照らすことである。このような方が、地域を支えているのである。世の中を明るくしているのである。                                           

 

     〇〇商店が、この地域にどのくらい貢献してきたのか。いったい、どれほどの子どもたちが、このお店のお世話になったのか。そこには、計り知れないものがある。
 

  「商店」という言葉の響きが好きである。自分が子どもの頃には、地元の駅前に5つも6つも商店があった。その中の□□商店が、自分にとっての商店だった。自分は、商店とともに小学生時代を過ごしたといっても過言ではない。商店は、たとえその建物がなくなったとしても、その人の心の中にずっと残る。それが、商店である。〇〇商店も、そんな存在である。長い間、お疲れ様でした。雪が降り、またご一緒に雪かきができることを楽しみにしています。                      
 

園長通信~こころ~ №509                                                             
                         看取る                                                                                                   2026.9.10

  「みとる」といえば、今までは「見取る」だった。商売柄、子どもを見取る、子どもたちを見取るなどと使ってきた。とはいっても、自分としては、積極的に使うことはない。どちらかというと、なるべく使わないようにしている。何年経っても、その意味がはっきりしないのである。自分で意味が理解できない言葉は使わないようにしている。                                            

 

 一方、「看取る」の意味はわかりやすい。その経験となると、まだ一度しかない。9年前に父が他界したときである。できれば経験したくはないし、何度も経験することでもないだろう。        

 

 お盆や年末年始を中心に、自分の母親と家人のご両親に会う機会がある。数年前から、会う度に同じことを思っている。「年を取ったなあ」お三人とも、かなりの高齢である。致し方ないことなのであろうか。
 

 自分の母親は、ここのところ、一気に衰えた感がある。さすがに、以前のような抜群の記憶力は影を潜めた。それでも、まだまだ元気である。おもしろいことがある。自分の年齢を2つほど引いている。自分の年齢がわからなくなっている。それなのに、息子である私の年齢はちゃんとわかっている。不思議である。                                           

     果たして、これからどうするのがいいのか、どうしていくのがいいのか、そんなことを考えてしまう。家人のご両親は、お二人だけで暮らしている。何かと心配である。すぐそばに住んでいればいいのだが、車で1時間の距離がある。        
  

 親の心配をしていると、同時に、明日は我が身というか、そう遠くない将来で、自分にも同じようなことが起きるだろうという気になってくる。親の姿と、近い将来の自分の姿を重ねてしまうわけである。それは、自分たちのこれからのライフスタイルに関わる重要事である。少しずつ、本気で考えていかなければならない。親は、自分たちの姿から、「あなたたちもこれからのことをちゃんと考えなさいよ」そう教えてくれているようにも思えてくる。                                

 

 これから、間違いなく親の死はやってくる。すなわち、看取るときがくる。それは避けられない。そうであれば、限られた時間で何ができるのか。どんなことをするべきなのか。今まで以上に、本気で考えるようになってきた。                                                         

     現時点で、明快な答えがあるわけではない。これから、徐々に答えを探っていくつもりである。先日、何気なく情報誌を見ていた。「終活」に関するページがあった。今までになく集中して読んだ。こんなことから始めていこうと思う。
 

 今までも行ってきたが、これからも続けたいことがある。それは、お寺や神社へのお参りである。そこではいつも家族の健康を祈っている。そして、親の長寿をお願いしている。                
 

園長通信~こころ~ №508                                                             
                       地元で生きる                                                                                                  2026.9.9

    もう2年ほど前になる。人生の節目にあたる、いわゆる還暦を迎えた。さすがに60年に一度のことはある。家族だけでなく教え子たちが会を開いてくれた。イベント期間のような1年が終わり、もうこんなことはないな、そう思っていた。
 

    ところが、意外にも、また教え子たちが会を開いてくれている。8月上旬にも、そのような会があった。その数日後、みんなで集まってテニスをする画像がLINEで送られてきた。そこには、「先日は、ありがとうございました。昨夜、実現しました。毎週ではないのですが、月曜日にやれたらやろう!ということになりました」とあった。子どもたちも混じっていた。楽しそうだった。      

 

    お盆明けから、また森合のナイター練習に通っている。毎回、いろいろな方に会える。それが楽しみの一つにもなっている。その日も、教え子に会った。そういえば、その日は月曜日だった。聞けば、今日で3回目だという。月曜日のテニスが続いていたのである。
 

    早速、様子を見に行った。大人も子どもも、実に楽しそうにボールを打っている。なかなかいいものである。何だかうらやましかった。中学時代のつながりがずっと続いていることに多少の驚きはありつつも、そうさせる何かがあるのだろうと考えた。       

     地元に残っている教え子が、けっこういる。みんな、地元社会に貢献しながら、家族をもちながらがんばっている。そういった姿を見ると、何だか誇らしくなってくる。中学時代も十分にがんばっていたのだが、大人になっても、それぞれの道を歩み、置かれた環境でがんばっている。見ていて、まぶしいくらいである。輝いて見える。
 

 テニスをしているときの笑顔は、みんないい笑顔である。仲間との楽しいテニスである。週に一度のいい時間である。こちらも毎週月曜日にはナイター練習が入っているため、また会えるだろう。今度は、一緒に混ぜてもらおうか。いや、やめておこう。きっと、昔の部活動のことを思い出して、みんなの表情が変わってしまうことになりそうだ。それはよくない。                            

 

    地元を離れて都会で生き、活躍している教え子もいる。みんな立派にがんばっている。一方、自分が生まれ育った地元に残り、地元で生きる。これもまたいい。結局、場所はどこでもいいのかもしれない。中学時代の思い出を胸に、それぞれの場所で生き生きと活躍してくれていれば、それでいいのである。楽しそうにテニスに興じる教え子たちから、地元で生きるよさを感じさせてもらったような気がする。                  
 

園長通信~こころ~ №507                                                             
                     アイスコーヒー新展開                                                                                                 2026.9.8

    お二人には、ずっとお会いできていなかった。いつものコンビニに、いつもよりも早めに行くと、会うことができる二人のおばあさんである。何か月も会っていなかった。もう会えないのかと思っていた。ところが、アイスコーヒーの季節になり、実に久しぶりに、そのお姿を見つけることができた。
 

    それからである。何度かお会いすることができた。以前との違いは、手に杖を持っていることである。それでも、コンビニを後にすると、二人でさっそうと南へと歩いていく。その姿には変わりはなかった。       

 

    ここのところ、新たな展開が見られるようになった。いつもの時間に、いつものコンビニに入る。すると、お二人がいる。どうやら、以前よりもお二人の入店時間が遅くなったらしい。こうなると、高い頻度でお会いできるようになるのではという期待感が生まれる。                            

 

    この前は、こんなことがあった。お店のイートインスペースにお二人の姿があった。この日は、二人ではなかった。もう一人のおばあさんが一緒だった。何やら3人で話している。今までにない展開だった。その後、いつものように二人で南へと向かったか、それともこの日は3人で向かったかは確認できずに店を出た。どうやら、決められた時間までに目的地に着かなければならないということではない気がした。全く切迫感がなかった。                                            

 

    先日も、イートインスペースにお二人の姿があった。すでに、朝食をいただいていた。私はというと、いつものようにコーヒーコーナーでアイスコーヒーをセットするところだった。どうしても、お二人の様子が気になる。何気なく観察してしまう。この日の朝食は、バターとあんこが入った小さめのパンとホット珈琲だった。ホット珈琲にストローを差して飲むのが、このお二人のスタイルである。これは、以前から変わらない。                                    
  

    この日にわかったことがある。私が、もう少し早く来れば、お二人がコーヒーコーナーで慣れた手つきで流れるように珈琲を入れる様子を見ることができる。これを見るには、早すぎても遅すぎてもだめなのである。私がお店にいるのは、わずか数分間である。お二人の様子を観察するためには、コーヒーコーナーにいなくてはならない。余計に、時間が限られる。珈琲を入れないのに、この場所にいるのは不自然なのである。そう考えると、コーヒーコーナーでのお二人に会える可能性は、決して高くはないことがわかる。                                                        

 

    そのうち、私の珈琲も、ホット珈琲になるだろう。さすがに、ストローは差さないが。新展開により、お二人に会える頻度が上がるような気がしてきた。これからが楽しみである。            
 

園長通信~こころ~ №506                                                             
                   ネガティブ・ケイパビリティ                                                                                              2026.9.7

    現代においては、安易な情報が氾濫した中での生活を余儀なくされる。何も考えずにいると、情報の渦に飲み込まれることになる。そして、振り回される。このような状況下では、手軽に手に入れた情報を鵜呑みにせず、正しいとすぐには判断しないことが肝要である。曖昧な状態を維持する姿勢が求められる。すなわち、モヤモヤした状態に耐えるわけである。
 

     これが、ネガティブ・ケイパビリティである。安易な情報や答えに飛びつかず、不確実な状況やモヤモヤした状態に耐える力である。即断せずに、立ち止まって考え続ける姿勢のことである。曖昧なものを曖昧なままに受け入れる力ともいえる。
 

    これからの教育の方向性の一つとして情報活用能力の抜本的な向上が挙げられる。情報活用能力というと、素早く検索する、プレゼン資料などを上手につくるといったイメージがある。生成AIが急激に発達し、ネット上にフェイクニュースや誤った情報があふれている現代だからこそ、情報の性質や真偽を慎重に見極め、適切に取り扱う姿勢が不可欠となる。何が正しいのかを安易に決めつけず、事実関係を確かめたり、異なった意見に耳を傾けたりしながら、いったん立ち止まる力、それこそがネガティブ・ケイパビリティである。
 

     調べれば、いとも簡単に知識や情報をつかむことはできる。だからといって、すぐには判断しない。解決もしない。あえて曖昧なモヤモヤした状態に耐え、考え続ける。そういった力をつけていく必要がある。
 

    我が身を振り返ると、モヤモヤしながら考え続けることには慣れているように思う。元々、情報を鵜呑みにするタイプではない。本当にそうなのか。他にはないのかと考えるタイプである。ネガティブ・ケイパビリティ、むずかしくて頭に入ってこない言葉である。それでも、モヤモヤした曖昧な状態で考え続ける力であることは頭に入った。この点では、モヤモヤしてはいない。
 

     問題は、どのようにして正しいかどうかを判断するかである。これが至難の業である。何かコツのようなものがあるのだろうか。AIが作成した文章かどうかの見極めもむずかしくなっている。特に、説明的な論説や論文などは、どうやって判断すればいいのか。答えが出ない。モヤモヤしてくる。                                                                                    

     世の中は、確かに便利になってきた。それは、きっといいことなのだろう。だが、いったい世の中は、どこに向かっているのだろうか。何がしたいのだろうか。誰かが、その答えをもっているのだろうか。考えれば考えるほど、モヤモヤしてくる。まずは、受け身ではなく主体的にならなければならない。それが、今のところの答えである。