ミチトーク

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Jesus loves you

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『11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。』
ローマ12:11~12




あぁ、なんて堅く面白みもない言葉でしょうか…

でも“御霊に歩む”歩みは地道に作られます。

なんでもそうだけど、日々の生活で地道に歩んでない人の生き方は何も変わりません。


「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とパウロは勧めます。

この“仕える”という言葉は“従う”という意味もありますが、礼拝用語です。

「何かをする」、という前に礼拝用語です。

旧約聖書だと“アヴェード”ですね。



“仕える”は英語で“serve”と言いますね。

Service(サービス)はこれの派生語です。

サービスは礼拝を指す言葉だと何回か話してますね。


だから「なまけるな!御霊に燃えて、従い、主を礼拝し、従いなさい!」とパウロは勧めてるのです。



御霊に歩む歩みは地道です!

地道じゃない土台造りはありえませんね。

日々の生活の中で、主を求め、礼拝し、人に見せる熱さではなく、内にあるイエス様への愛、情熱が人を造り変えます。


その日々の生活だけが人を変えるんです!


自分には愛がない、なんて言わないでください。

人は元々愛はないんです。

愛は選択なんです。

主を選ぶ、主を愛することを選ぶ、それが愛です。


みんながみんな生まれながらに持ってる性質は、自己中心です。

これが僕らの最大の敵かもしれませんね。

これに従うといつも敗北感、みじめさを味わいます。

主を礼拝し、御霊に満たされることを選択し続けるなら、これに打ち勝つことができます!



「でも今日はそういう気が起こらないから、好きなことしよう」という肉に従う歩みが自分の性質を作っていきます。

ガラテヤ5章の、不品行、妬み、怒り…はそれに従った実ですね。



人の心を建て上げ、人の心を守るのは、愛なんです!

選択の世界なんです!

その選択の連続、その選択の歩みが命ある歩みに導きます。


自分の性質に翻弄され続ける人生を選ぶのか、主に従って生きることを選ぶのかは選択です!

僕も自分の性質にほとほと翻弄され続けた時代を通りました。

でもそれに反抗しなかったら、今でもみじめな歩みをしてたと思います。


民数記にこんな記事があります。


『主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主の目の前に悪を行ったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。』
民数記32:13




荒野にさまよわされた、って出てくるでしょ。

この“さまよう”って言葉の意味は、翻弄される、ふらつく、よろめくって意味です。


自分の性質に翻弄され続けて、あっち行きこっち行き歩のか、しっかり歩むのかは日々の選択で決まります。

その性質が内に形造られない限り、いつもみじめな思いに振り回されます。


ローマ12:11~12の地道な歩みが実際になりますように。


『11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。』
ローマ12:11~12





信仰の原点はいつまでも神様との関係。

愛され、愛し、心が罪、的外れ、嘘、邪悪さから守られる。


どこまでいってもこれに尽きる。


夫婦関係でも、成熟するというのは更に親密になっていくことが成熟だ。

何かのための一致ではなくて、愛され、愛する関係。


だからいつもいつも毎日毎日神様に出会わなければいけない。

それは祈らなければならない、ということを超えている。


それは人格に出会うということ。

夫婦でも話せばいいかというとそういうことではない。


人格に触れるということ。


これを“出会う”と言う。


知ってる、信じてる、話した、祈った、では人は何も変わらない。

出会う必要があるんだ。


そこに聖書の言う平安、安息がある。

安息はほっと一息することではない。

ヘブル書によると、安息は力を尽くして入るものだ。



『ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。』
ヘブル4:11




思い煩い、自己中心という森を抜けて、主の山に力を尽くして登る必要がある。


だからつまるところ、ほんとにイエス様を愛し求めてるかどうかにかかっている。



ほんとの愛だけが人の心を罪、的外れ、ねたみ、邪悪さ、偽りから守るのだ。




昨日の女性の祈り会で、ある女性の素晴らしい証があったので分かちます!

今、出エジプトのデボーションをしていて、ある時は読んでも何も感じないし、何もないことがあると。

でもそれでももう一度祈って、読むと、何かひっかかったりすることがでてくると。

そうです!これが必要です。

自分に役に立つことではなくて、みことばから教えられること、その経験が必要です。

僕らはあまりにも、自分のためのみことばに捕われています。
(これは教会の責任でもある!教会や牧師がみことばの正しい理解を教えないから!自己中心のみことばの理解になっていく。)

ほんとにその思いや考えが砕かれて、主がみことばを通して教えようとされてることを知る経験が必要です。

良い地に種が落ちるとは、耕され(アヴェード。礼拝)、砕かれた心に種が落ちると、実を結びます。

みことばの種が実を結び、御霊の実を結びます。

そのための土地改良が必要ですね。

アダムに託された“耕す”という働き。

そこに主のことばが入り、豊かな30倍、60倍、100倍の実を結びます!!

そして主の似姿に変えられていきます。

イエスさまが、どういう地に落ちるかが大切だとメッセージされた事はとても重要ですね。

ちなみに昼にしたブレイクスルーを求める祈り会では、あるブラザーからこんなみことばがシェアされました。

『なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。』
箴言20:4

そのまんまですね(笑)

霊的に冬のような時に、耕されず、かたくななままならば、刈り入れの時が来ても何も収穫がない(笑)

これは僕らによくあることです!ほんとは笑い事じゃないけど、もう笑ってしまいましょう!

「実を求めてたけど、収穫した気がしない…そうか!耕してないからか(笑)」と笑いとばして、悔い改めましょう(*^^*)

みことばが良い地に落ちるだけで、実を結びます。

実とは、御霊の実です。

御霊によって変えられることです。

僕たちは努力の方向を間違えてしまうことがあります。

僕達が心から努力することは、ほんとはとてもシンプルですね。


ゲヤス先生のメールマガジン。
今、教会に教えられてることと一致してる。
俺はこれを読んで、数年前に語られてた、「教会から教会をわける」ということをすごく思い出した。
ほんとに神さまが教会をきよめの時期に入れてると思います。
世をきよめるんじゃないんです。
御自分の体である教会をきよめるんです。
そのためには痛みを経験しますが、喜んで痛みましょう。
割礼とは本来動けないぐらい痛いんです。
痛まないきよめはないんです!
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勝利するために整えられる時です!
親愛なる 勇士の皆様!
今、肯定的なものと否定的なものをたくさん見るときです。神は神の民を回復させ、暗闇に神の光をもたらしたいと願っておられます。聖書は、教会は主が聖霊を通して語っておられることを聞く必要があると教えています。(黙示録2-3) 主は私たちが立ち上がり、悪に打ち勝ち、神の国をあらわしてほしいと願っておられます。主は今後数年間に使徒的センターで3つのトピックについて話すように私を導かれました。今年の計画は、それぞれの使徒的センター(大阪、中部、東京)で同じトピックを扱うことです。私たちは皆、主がみことばを通して私たちに教えておられることを聞き、その後行動を起こす必要があります。私は、北海道や他の主要都市など、日本の他の場所でもすぐに使徒的センターをスタートさせるようになると信じています。
主は今年、私たちが土地を勝ち取り、土地を回復させる方法に関して学んでほしいと願っておられます。土地はいやしを必要としており、私たち信者は、土地の賢明な管理人として、このことをするように召されています。のろいを打ち砕き、その後私たちは回復をもたらす必要があります。私たちは土地に語り、預言することを学ぶ必要があります。御国の政府が確立されるために、使徒たちと預言者たちを連れてくることを学ぶ必要があります。使徒たちは長老たちを建て上げ、長老たちは執事たちを建て上げ、それから神が最初からご計画された政府が確立され始めます。使徒たちと預言者たちはただ祈り、説教するだけではなく、主要な地域に御国の政府を確立するために動き回り始めます。
次に主は私たちが信仰の新しいレベルに達する必要があることを示されました。信仰とは、私たちが信者として歩む方法です。神にある信仰とみことばは、今年私たちに山を動かせるでしょう。行ないのない信仰は死んだものです。真の信仰は、神が約束されたものを神が実現されるのを私たちに見せます。神が約束されたものを所有するために、私たちは恐れではなく、信仰をもつべきです。不信仰は今年、私たちから神の祝福を奪うでしょう。私たちは「信仰の法則」の用い方と、さらに私たちがより大きな祝福を見ることができるように私たちの信仰を増加させる方法を学ぶ必要があります。神はヨシュアやカレブと同じ霊を持った人を探しておられます。
私たちは土地を回復する方法と信仰を増加させる方法を学ぶように、キリストのみからだにやってくる大きな悪に勝利する方法も学ぶ必要があります。私たちは悪魔が私たちの足の下に来るのを見るなら、悪に打ち勝つ方法と善を行なう方法を学ぶ必要があります。(ローマ16:19-20) 聖書は「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。(1ペテロ4:17)」と述べています。イエスは「収穫とはこの世の終わりのことです。(マタイ13:39)」と語っておられます。収穫の時期がここにあり、私たちは良い種と悪い種の両方を収穫することを理解する必要があります。私たちの人生にあるパン種の取り除き方を学び、主に仕え、みことばに従いましょう。私たちができるあらゆる方法でみことばをばらまきましょう。土地を回復しましょう!みなさんの信仰を増加させましょう!悪に打ち勝ちましょう!!!シャローム!!
使徒ゲヤス・ローレンス



第二コリント4:3~4にこうある。

『それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。
その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』




4節の“不信者”という言葉にフォーカスをあてます。

これは今まで、ノンクリスチャンという意味で理解していた。

メッセージでもそうやってずっと聞いてきた。


サタンはノンクリスチャンの目をくらませて、イエスさまが分からないようにしてるから、それがはぎとられるように祈らないといけない。語ってもサタンの覆いがあるからわからない…と。


僕は、神さまはクリスチャンかクリスチャンじゃないかで見てないと思うんです。


いや、クリスチャンじゃなくてもいいという意味ではなくて、人間レベルで見る、いわゆる教会に行ってるクリスチャン、教会に行ってなくても「私はクリスチャンだ!」と言い張る人…のレベルでのクリスチャン。


神様が見てるのは、本当の信仰かどうか。

神さまの定めた信仰かどうか。

それを見てるんだと思います。


人間の目なんて簡単にごまかせます。

社会的に認められてたり、多くの人に人気があって、「私はクリスチャンです」と言えば、みんなが納得するでしょう。

でも聖書に堅く立ってるにも関わらず、世の人が見て「あの人は愛がない。」「かたい」というなら、クリスチャンのくせに寛容じゃないとか、愛がない、とか言う。


人間の目なんてほんと節穴です。

自分の立場、視点ですべてを判断するからです。



話を戻しますが、“不信者”と訳されてる原語を調べると、アピストス。

信仰は、ピストス(形容詞)ですから、その反対ということです。


ということは!これは不信者と訳してはいけないと思います!!


ピストスは、信仰、それはつまり「わたしはイエスさまを信じてます」レベルの話しではありません。



このピストスには、信仰、誠実、忠実、信頼、真実…という意味があります。

ガラテヤ5章に出てくる“誠実”、あれがピスティス(動詞)です。

イエスさまに対する誠実さ、忠実さ、真実さ、信頼関係を伴った信仰が、ほんとの信仰の意味です。


信じるだけなら。悪霊も信じてると、ヤコブ書にあります。


英語で“忠実、誠実”をfaithfulといいますね。

faith(信仰)がfull(満タン)で、忠実、誠実という意味です。


faithfulの反対語は、unfaithfulです。

unfaithfulはどういう意味か知ってますか?


浮気、不貞という意味です。


信仰の反対は、浮気、不貞、二心ということです。



最初の“不信者”ということばに戻りますが、これは不信者、つまりノンクリスチャンのことじゃないですね。

イエスさまを信じてても、浮気をしてる人はいっぱいいます。


偶像礼拝です。


もちろん神社仏閣に参拝したりするのは論外ですが、偶像礼拝とは貪りだとコロサイ書で解き明かしています。

イエスさま以外のものに頼ってる。これが偶像礼拝です。


クリスチャンはあぐらをかいて、ノンクリスチャンを裁いてる場合ではありません。

不信仰な自分をまず悔い改める必要があります!




“委ねる”ということばは、何か受け身的なイメージがある。

「神さま、委ねます」というと、自分では何もしないというような。

何もしないでぼた餅的に落ちてくるようなイメージ。


委ねるというのは、捧げるという意味だとつくづく思う。

自分の内側、苦い思い、を捧げる。

自分を差し出す、捧げる。

取り扱ってもらう。

これが“委ねる”。

これを隠したままで、「委ねます」と言っても、何も変わらないでしょう。

腕に傷を抱えてるのに、それを隠したまま病院の先生に「何か調子が悪いんです…」と言っても、的外れな薬を出されるだけでしょう。

手術されて痛いかもしれないけど、ほんとに治りたいんだったら袖をまくって、「ここにケガしてもう化膿してるから、痛くてもいいから治してくれ!」って差し出さないと手術もできないでしょう。

委ねるというのは、受け身ではない。

能動的だ。

啓示でもそうでしょう。

求める者に与えられるでしょう。

求めよ、そうすれば与えられる。求めないから与えられない。当然でしょう。

でも人間の性質は「いやぁ、求めてるんだけどね…」とすぐ言う。

それは求めてるんじゃなくて、漠然と「そうなればいいんだけど…」と心のどこかで思ってるだけ。

それは求めてないんです。

“委ねる”も“求める”も“捧げる”も能動的。

ローマ12:1節には「捧げなさい」とある。

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』


そして続く2節には、『変えなさい』とあるけど、この原文の意味は『変えてもらいなさい』なんです。新共同訳では『変えていただき…』と訳していますね。これが受動的なんです。


『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

能動的に捧げるときに、受動的に変えてくださるんです。

この“捧げる”、“委ねる”というプロセスなしに変えてもらえることはないんです。

だから変わらないんです。





http://www.banministries.org/?p=2309




WWGM » Blog Archive » クリスチャンの生き方   リック・ジョイナー          2014年4月1日
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クリスチャンの生き方   リック・ジョイナー          2014年4月1日

クリスチャンの生き方

リック・ジョイナー(礼拝説教からの抜粋)

神からの知恵を受ける必要

私たちは「これが問題だ」「これが障碍だ」「もっと資金がいる」「もっと教会全体の協力がなければ…」とかいうのではなく、神の御前に出て何かすばらしいアイディアをいただこうではありませんか。そして、もっと創造的な工夫ができるようになろうではありませんか。

これから来ようとしている時代には、それが必要となると思います。「Small is next big.=小さいことは次に大きいことになる。」ということばがありますが、私はそれを信じます。

私は1987年に大収穫のヴィジョンを見ましたが、その中で75人の小さな教会に一週間に千人の新メンバーが加えられていました。しかし何千人ものメガチャーチには一週間に100人の新メンバーしか加えられていませんでした。私は「収穫の時にはメガチャーチには何万人、何十万人もが加えられると思っていました。」と主に申し上げました。

主は「メガチャーチは収穫の準備が出来ていなくて、小さい教会の方がずっと収穫のための準備が出来ていたのです。」と言われました。それは彼らが時間や資源をいろいろな行事やプログラムにではなく、人々を育て上げるために用いて来たからです。神の建てるものは、人々を土台にするのであって、プログラムを土台にするのではないのです。良いプログラムはいろいろあり、勿論それも大切ですが、私たちは人々を育て調えることを忘れてはなりません。

私たちは常に柔軟性を持ち、今神が言われることに従って動かなければなりません。ともすると私たちは直ぐに「古い皮袋」になってしまいます。「神はこの前はこのように動かれた。今回もそうだろう。」というように考えて、柔軟性を失い、新しいぶどう酒を無駄にしてしまうのです。

終末に用いられる「力のメッセンジャー」

敵は、予測できる動きしか出来ない者を容易に打負かすことができます。創造的な思考能力がある人はとても少なくなってしまいました。私はクリスチャンになってすぐにヴィジョンを見せられたのですが、終末になると「力のメッセンジャー」が起こされるのです。主はこれがどのような人たちかを教えてくださいました。驚いたことに、彼らはすべて問題だらけで社会から外れたような人でした。彼らがどうやってこの世の中で生き延び来られたのか私にはわかりません。しかし、聖書の父祖たちもそのような人でした。彼らは天の故郷をあこがれていましたが、この世では旅人であり寄留者でした。今からの時代に「力のメッセンジャー」となる人たちは非常に変人で、すごく問題のある人たちでしょう。彼らは多く赦されたので、多く愛すのです。ですからそのような人たちが皆さんの前に現れた時に驚かないでください。

私はヴィジョンで見たのですが、本当にひどい人たちでした。ヤコブは天使と格闘をして変えられる前は、人を騙す策略化であり、嫌われ者でした。神は私に「あなたが受け入れられるだけ、どんどんそのような人をあなたのミニストリーに送りこみます。」と言われました。私は「O.K.」と答えました。(笑)

あなたはその様な人たちを受け入れる用意ができていますか。私たちの中には、ヤコブではなくエサウを選んでしまう人が多いのではないでしょうか。エサウは人と巧くやっていける好感のもてる人物でした。私たちはともすると神のご計画を見逃してしまいます。一番問題のある人や、全く適合していない感じの人が力を発揮するようになるのです。

シンプルライフの勧め

私たちはシンプルに生きるのがよいと思います。数年前のリサーチの結果では、私たちの物質的豊かさが私たちの幸せに占める度合いは、驚いたことに「ゼロ」でした。「少なくとも1パーセントか5パーセントくらいは物質的豊かさが幸せにしている」と思いますよね。しかし実際のところ財産の豊かさは、ほとんどの場合人々を不幸にするのです。

世界で一番幸せな人たちというのは、往々にして一番貧しい人たちです。彼らはシンプルな生活をしています。真の幸福は、物ではなく、人間関係の上に築かれるのです。私たちは足に絡み付く余分なものを捨てて身軽にならねばなりません。必要以上の荷物を捨てねばなりません。必要ではないものを捨ててください。これからの時代はシンプルに生きる人が生き残れるのです。自分の持ち物を管理するのにエネルギーを使うのは愚かです。神の指示が出たときに余分な荷物があると素早く動くことができません。

私もそのようにしています。私の夢は一文無しで死ぬことです。すべてを神のために、福音の為に、魂の救いのために使い果たして死にたいのです。私たちは今まで最大の神のムーブメントを迎えようとしています。この機会を見逃してはなりません。

エリヤとエノク

私はこのところエリヤによく会います。預言的経験の中ですから、実際のエリヤに会ったのか、霊的な経験だったのかはわかりません。エリヤはもうすぐ来ます。それはエリヤの霊がキリストのからだに来るということです。

しかし、エリヤが私に「あなたはエノクに会うべきだ」と何回も言うのです。エリヤは又、「私とエノクは死を経験しませんでした。それは、終末の時の最後の神のムーブメントのときにキリストのからだに大きな霊的分与をするためです。あなたはエノクに会わねばなりません。」と言いました。

私も会いたいと思っていました。それは私がまだクリスチャンになったばかりの時、主がエノクの預言を教えてくれたからです。「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。(ユダ14)』」

エノクはアダム以来はじめて主と共に歩いた人です。彼がこの終末の力ある者たちについて預言しているのです。そして私はついにエノクに会うことができました。彼は私が想像していた人物とは全く違いました! エノクは私が今まで会った人の中で比べ物にならないくらい最もハッピーな人だったのです。いつも一緒にいたいと思うような人でした。彼が持っている喜びは信じられないほどでした。彼は地上に暗やみが広がっていた時代に生きていました。ネフィルムもいたし、人の悪が増大した時代であったにも拘わらず、エノクは最高にハッピーで喜びに満ちていたのです。

エノクと会ったすぐ後で私はまたエリヤに出くわしました。彼は私に「エノクと会ってどう思いましたか?」と聞きました。「彼は私が会った中で一番ハッピーな人でした。驚きました。」と私が答えると、エリヤは「何か質問がありますか?」というので、「ええ。あります。どうしてあなたはエリヤのようにハッピーじゃないのですか?あなたはずっと天国にいたのに、どうしてもっとハッピーじゃないのですか?」とぶしつけな質問をしてしまいました。どうしても聞きたかったのです。

エリヤは答えてくれました。その答えは私に非常な衝撃を与えました。「どうしてか話しましょう。あなたが地上で生活する間に、天国に行ってからあなたが永遠にどのような人になるかが決められるのです。天国に行けば、あなたの苦しみ、悲しみ、嘆きはすべて取り去られます。私もエノクのようにハッピーになることは可能でした。でも私は地上にいる時、暗やみの方にばかり焦点を当てていました。『私だけが残って他は誰も主を信じるものはいない』というように悲観的になった事が多かったのです。私はもっとエノクのようになることもできたのです。そしてあなたもそうなれるのですよ。

エノクはどんなに地上が暗くても神と共に歩き、神に焦点を当てていました。彼の中で神はどんどん大きくなって、まわりの様々な問題や状況はどんどん小さくなりました。主の臨在の中では喜びが満ちるのです。」

エノクは主の臨在の喜びの頂点に達したのだと思います。だから天に上げられたのではないでしょうか。そして今も喜びに満ちているのです。

勿論、私たちは天国に行けば皆ハッピーです。天国で一番ハッピーでない人でも、地上で一番ハッピーな人よりもっとハッピーです。それは確かです。でも私たちは今、自分の永遠の性格を決めているのです。エリヤは言いました。「あなたの信仰を増し加えるために一日も無駄にしてはいけません。神の喜び、神の平安へと成長できる時を無駄にしないでください。聖霊の実は育てられてだんだんに大きくなるものです。私は多くの日を無駄にしました。」

私も今のチャンスを逃したくありません.主の喜びが、これまでよりはるかに大きくやって来ようとしています。私たちには考えられないような喜びに満たされハッピーになるのです。主を間もなくお迎えしようとしているのですから当然ではありませんか。主の臨在の中で私たちはハッピーになるのです。いいえ、ハッピー以上のものー喜びです。ですからあなたの試煉を無駄にしないで下さい。 一日も無駄にしないでください。私たちは今、永遠に自分がどのような者になるかを決めているからです。