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ミチトーク

Jesus loves you






このリンク先の最後の文
日本も大地震が来る事はもうわかっている。しかし、この医療施設ほど具体的な準備はおそらくできていないだろう。私たちも、まだおこっていないことに、しかも同胞たちのために大胆にお金と時間を投資するというメンタリティを、イスラエルから学ぶ必要があるのかもしれない。


iPhoneで流行ってるか流行ったか知らないけど、パズドラってやつがあるでしょ。


あれのYouTubeのおすすめみたいなやつで一覧が出たけど、すごいね…


ほんとに霊的な世界だ。








イゼベル…列王記と黙示録に出てくる女…

イゼベルは王妃で、アハブの妻だった。

王はアハブだったが、影で実権を握っていたのはイゼベルだった。

金、地位、権威を握り、男を骨抜きにし、宦官(去勢された召使い)を仕えさせていた。

この女は黙示録にも出てくる。

イゼベルの霊は、惑わし、不品行に向かわせる。


イゼベルの霊は惑わす!

真理から遠ざけ、骨抜きにされる!


イゼベルは情を使い、惑わす。

コントロールする!


イゼベルを打ち破ったのはエフー。

エフーはイゼベルに対して全く無視した。

コントロールされず、全く無視し、対決した!

黙示録の教会にもイゼベルは入り込んだ。


そしてイエスさまはそのイゼベルをなすがままにさせている事を叱責した。

「離れろ!追い出せ!」と。


イゼベルは感情に訴え、惑わし、真理から離し、人間的な戦いに持ち込む。


イゼベルスピリットに立ち向かうには、エフーのように徹底的に立ち向かうことだ。

話し合ってはならない!

イゼベルはコントロールの霊だから。




「今いる場所でわたしを愛しなさい」


http://onfirejapan.blogspot.jp/2012/01/blog-post.html



ほんとに打ち破りというのは、霊的な変革から起きる。


神さまとの関係の変革。関係の打ち破り。


何か人からの助けや不思議なことが起こると「神さまが送ってくれた」という心が人にはある。


でもそれは人を作り変えない。


出エジプトの民が食い物や水の要求が聞かれても何も変わらなく、さまよい続け、しかも約束の地にいけず、滅びてしまったように。


聖霊さまとの関係が人を造り変える。


神さまとの関係だけが人を造り変える。


品性や性質が変わらないかぎり、ループし続ける。


僕は去年の1年間はほんとにさまよった感じだった。


去年といえば、僕が今までの仕事をやめて、牧師としてスタートする時だった。


そんなタイミングで色んな葛藤が起きた。


その葛藤が1年ほど続いたが、ほんとにそこで学んだのは、神さまを知ることだった。


何か色々言うのは今はめんどくさいけど、とにかく今までの神さまとの関係が一変された。


神さまの深みに触れてしまった。


というか、深みの入り口に立ってしまった。


それまではある程度、わかってるという思いがあった。


だから後は実行あるのみ、だと。


間違っていた。


まぁ、それが罪だね。的外れ。


僕は育った教会、牧師、そしてずっとお手本だと思っていた教会が基準となっていたが、それが何の役にも立たなくなった。


あ…書くのめんどくさくなった(笑)


何が言いたかったというと、最初にシェアした文章です(笑)


その後の俺の話は無駄です(笑)





【祈りのメッセージ】 ウォッチマン・ニー

祈りには、祈る側と祈られる側の両側があります。多くの時、祈られる側に変化して欲しいなら、祈る側の人がまず変化しなければなりません。

もし相手側に一向に状態の変化が見られないなら、こちら側は神の御前で尋ね求めて言わなければなりません。

「主よ! わたしにはどんな変化が必要なのでしょうか?
わたしにまだ対処していない罪があるのでしょうか? 
手放さなければならない好き好みがあるのでしょうか?
わたしは本当に信仰の学課を学んでいるでしょうか?
あるいは、わたしには何か別に学ぶべきことがあるのでしょうか?」。

もしわたしたちの側で変化が必要なら、先に変化しなければなりません。自分が変化していないのに、祈っている相手側の変化を期待することはできません。




最初からうまくいってたら、こうはいかんかったという事もある。

イスラエル人がつまづいたことで、救いが異邦人に来た。

そしてねたみを起こさせ、救いがイスラエルに返っていくという神さまの戦略。

「ああ、神の知恵と知識との富は何と底しれず深いことでしょう…」
ローマ11:33

夫婦関係も最初からうまくいってたら、うまくいってない人の気持はわからない。

良くなりたくても配偶者を裁きの目で見たり、見下してしまうどうしようもない心、愛せない心…自分の努力ではどうしようもない心…

それを神さまのやり方で作り変えてくださる…

心は自分ではコントロールできない。

もちろんスポーツレベルではできる。

僕は少林寺拳法、空手をやってきたが、めっちゃ痛くても絶対顔には出さない。

相手には「全く効いてないぜ!」って思わさないといけない。

それは練習すればある程度はできる。

痛くても痛くないように見せる。

人ってのは傷ついてても傷ついてないように見せることがよくある。

むしろ攻撃側にまわって、これ以上傷つく側にいないようにすることもある。

隠すというのは、隠してるだけでほんとはある。

あるものをないもののようにしてるだけ。

でもそれは自分では気付いてるし、相手もうすうす気付いてる。

夫婦のような本来親密な関係ではなおさらだ。

「わたしのこと、俺のこと、この人は見下してる…」ってね。

でもほんとに神さまとの関係は心を一新させてくださる。

もちろんそれはクリスチャンになれば…というようなものじゃない。

表面的にクリスチャンになってもほとんど何も変わらない。

一週間の予定ぐらいは変わるけど。

ほんとに神さまとの出会い、関係は人を造り変える。

「御霊によって歩め。そうすれば肉の欲望を満足させることはない。」と聖書は言う。

そして、自分の心は神さまによってしか変えられない、という経験をした人、してる人だけが、その人のためにほんとに祈ることができるのだと思う。




自分で自我に死ぬことはできない。


つながると、“死ねる”のである。


ヨハネ15:5
『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。


イエスさまを離れては、何もすることはできない。


自分に死ぬことさえできない。



6節にはこうある。


ヨハネ15:6
『だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。』



“死ぬ”ことと、“枯れる”ことは違うようだ。


たしかに違う(*^^*)



とどまれば、死ねます。


とどまらなかったら、枯れます。



ヨハネ12:24
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』








『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。——主の御告げ——それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』


有名なエレミヤ書29:11~13である。


聖書のみことばは全部そうだが、全て神さま側のことばだ。


これが人間側から読むと、『神さまを信じると心の安心がある』ぐらいのもんである。


結局、求めるものは心の安心だからイエスさまでも神社でもいいわけである。


このみことばにある“平安”も人間の平安、安心ではなくて、神の平安である。シャロームということだ。


御霊の実である、愛も喜びも平安も、神の愛、神の喜び、神の平安だ。


自分が思う愛でもなく、自分が思う喜びでもなく、自分が求める平安でもない。


もしそれを求めるなら、人気や興奮、安心を求めるなら全部を成功させて札束をもたせれば、平安と喜びがやってきて、お金あげれば愛のある人間と思われる。


当たり前だが聖書の言ってることとは全然ちがう。





ちなみにこのエレミヤのことばが語られた背景は、バビロンという国に捕囚、つまり奴隷のように扱われるよ、と預言されてるときだ。


にもかかわらず、これは平安を与える計画だ、と言ってるわけだ。


今から困難に会うけど、これは平安を与える計画だよ、と。


そして将来と希望を与えるためだ、と。


今から他国に連行されて、奴隷のような生活が待ってるにも関わらず、平安の計画で、将来と希望を与えるためだ、と。




人間が考える希望とは全然違う。


ガラテヤ5章に、霊と肉は対立する、とある。


霊的な愛、霊的な喜び、霊的な平安を取り去るのは、肉である。


不品行やねたみ、怒り。これが御霊を悲しませる。


悔い改めるというのは、それそのものをやめるということはもちろんだが、神さまに向き直す、ということ。


その実として、愛、喜び、平安がやってくる。


これは何回聞いても失敗する。


実際に困難がやってくると、愛がない自分に嘆き、喜びがない心に従い、平安がない不安を思い巡らし思い煩う。


知ってるにもかかわらず、実際に来ると、「なんだ…平安なんてウソじゃないか…」と思ってしまう。



それに従うなら必ず肉の実がたわわに実る。




いつもいつも主の足もとに座り直すこと。


そこにすべてがある。




平安を与える計画とは、神さまに立ち返るということだ。


神さまのやり方、生き方に立ち返ること。


そこにすべてがあるから。


そこに立たないと、いつも土台がひっぺがえされる。


土台が間違えてるゆえ、神さまが土台をひっくり返す。


それがイエスさまが言った、岩の土台と砂の土台だ。





『人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。』
創世記4:1


この“知る”ということばは僕の生涯のテーマだと思う。


これはヘブル語でヤダーという。


このヘブル的な“知る”には計り知れない深みがある。


最初に挙げたみことばの“知る”は、はっきり言えば、セックスのことである。


アダムとエバがセックスをして、みごもった、


“知る”というのは、神の奥義だ。


ヘブル的な概念は、知識として知ることを超えて、体験するとか、交わり、だとか、関係を意味する。


頭で知るんではなくて、体験として知る、という意味だ。


そしてそれは大体隠れたとこで作られていく。


セックスを大っぴらでやったらそれは歪んだ性癖か、変態か、アダルトビデオだ。


普通夫婦は、隠れて交わり、命を宿す。


イエスさまは、祈るときは奥まった部屋に入って、隠れたところで、隠れたところにおられる方に祈れ、と言っている。


『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』
マタイ6:6


いのちは隠れたところで造られる。


聖書が言ういのちというのは、生命のいのちを超えている。


イエスさまが人はパンで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによって生きる、と言ったように。


聖書のいのちとは、肉体的ないのちを超え、永遠のいのちも超え、霊が生きる、神さまとの生きた関係、力強いいのちを言う。



これが“知る”という意味だ。


人間関係によって左右されず、神との深い関係によって生きる。


そうしたときに、その関係が隣人に広がっていく。


それなしに隣人を愛そうとしても、依存関係、共依存関係になってしまう。




いのちは隠れたところで造られる。



まさに霊のいのちは、隠れたところで養われていく。



ちなみに隠れたとこは、何も一人っきりのところに限らない。


教会のみんなで礼拝し、賛美してる時でも、隠れた部屋に入ることはできる。


物理的に一人のときに、心がグチャグチャで祈れないことがある。


それは隠れたとこになってない。


共に集まり、礼拝している中で、“奥まった部屋”に入る。


これがエペソ書で解き放たれている教会の奥義だ。