杉よりは檜。


杉よりは檜に反応します>花粉。


春が来てからというもの、
明け方にくしゃみと鼻水に苛まれ、
目覚ましが鳴るまで一時間くらい、
うつらうつらと鼻をかみながら、ぐだぐだしているもんで、
いつにも増して目覚めが悪いこの頃。

早く収まらないかしら。。。

と、思いながら、お天気ニュースを見ていたら、

「檜の花粉は、今がピークを迎えています」

っていう頻出の言い回し。

今がピークなら、そのうちに収まるに違いない、
辛抱辛抱、って根拠もなく思いながら、
ここ数日を過ごしておりましたら、
先日、某局のお天気お姉さんがあっさりと言い放った言葉。


「檜の花粉は、今がピークを迎えています。
 あと1ヵ月の我慢です。」


・・・・・・って!

え、ピークって、1ヵ月も続くの!

1ヵ月って、長いけど!

そんなあっさり我慢ですって・・・!


この恨めしい花粉のピークが1ヵ月と知ってから
何だか寝ても覚めても
ピークという言葉の意味について考えている。


絶頂期。


何をもって、どのくらいの長さや濃さをもって、
頂というのか、
それは本当に、
究極的には個々人の感覚的なものであり
科学的に言っても、
短期で見るのか、中長期で見るのか、
切り口によっては、無数の定義がありえる。


例えば、
結婚式は、結婚する2人の幸せの絶頂である。
というようなこともよく言われるけれど、
これは多分、
結婚式を準備している半年とか一年とかのスパンでみれば、
確かにそうかもしれなくて、
でもきっと、
もっと長い目で見れば、
その瞬間が絶頂だなんてことは、ないことだって十分にある。


人生で今が最高だって
思える人は幸せだけれど
もしかして平均的に見れば
今より幸せだったときだってあるかもしれない。


働き盛りとか 女盛りとか
そういうのだって
この半年~1年では、
今が一番輝いているっていうのはあるかもしれないけれど、
5年~10年で見たら、
もしかすると、
10年後が一番、活き活きしているかもしれないし、美しいかもしれない。


それで、
例えば80歳で死ぬとして
80歳で死ぬまで、
ピークの波線は、
行ったり来たり
行ったり来たりして
ある部分を拡大したら、
もっと行ったり来たりしていて、
だけれども、
0から終着点までを、
さらってみたら、
結局、右肩上がりだったりして?


それって
フェイクの絶頂期。


フェイクの絶頂期を重ねて
落ち込んで
結果持ち上がってたら、
結果オーライなのかもしれない。


なんてことを
ティッシュを抱えてよろよろしながら
花粉のピークはしかし
知らない間に右肩上がりなんて困るから
早く落ち込んでください。


1ヵ月なんて、言わずに・・・!






お花見イベントや桜祭りが相次いで中止となっているうえ、
依然として肌寒い日が続いていて、
春らしい、桜と笑顔に溢れた風景は、未だ見当たらない。


だけれども、
きっと桜は咲くのです。


そのことを忘れそうになって、はっとする。


季節は巡り巡るとはよく歌ったもので、
戦乱の時代にも、近代戦争の最中でも、どんな災害の後にも、
…どんな、個人的困難にあるときでも…
春になれば、桜はそこに、咲いて来た。


「きっと」でないことは、
そこで笑顔が咲く、
ということ。


人びとが、桜の下で笑顔になるかは、正直分からない。


笑顔になるかも分からなければ、
お酒を飲むかも分からないし、
そのお酒の味をどう感じるかも分からないし、
お酒を飲んだ挙げ句にどんちゃん騒ぎになるかどうかなんて、
ますます分からない。


事実や現象と、その感じ方の間には、
どうやったって統一できないものがある。


「自粛論」が何だか気持ち悪く感じられるのは
感じ方の問題についての統制的な匂いが、
するからなのだと思う。


反論にあたって、
経済活動が、とかいう理論を述べるのも、それはそれでいいけれど、
わたしはやっぱり、
感じ方について、
どうすることもできないこと、どうしてもいけないこと、
が気になるのだと思う。


恐らくこの自粛要請に関しては、
どんちゃん騒ぎ系を敬遠するものだと思われるけれど、
もしかすると、どんちゃん騒ぎをする人は、
お酒を飲んで騒がなければやるせないくらいに混乱しているのかもしれない、
と、考えることも、それはそれで可能である。
或いは、
お酒を飲んで騒げるときに騒いでいたいという死生観とか。
極論すれば、そう考えることも、可能であって、
例えばそれに蓋をすることは、感情の発露を塞ぐことになるのでは?
なんていうことだって。


当然ながら、現実的に、
「今回の大震災で、苦しみ、悲しみ、闘っている人びとに、何の感情も持たない人」
も、いるのかもしれず、
桜咲いたんだから、花見なんだから、騒ぎたいぜー、って、
思っている人も、いるのかもしれないけれど。


それでも、
例えば東京近郊でお花見をする(予定である)人たちは、
地震という事実を一度経験して、
その上で、その行動をとるのであるから、
それ以前の、彼らとは違う。
それ以前の、彼らとは違う感じ方で、その行動を取っている。


表面上の行為が同じことであっても、異なる思いが、原動力になっている。


だからきっと
自由に解放したところで
根本的には異なっているし、違っている。


花見という行為を取り締まっても、
感情の部分は、誰も踏み込めない領域なのだ。


「何の感情も持たない人」がどんちゃん騒ぎをしているならば、
わたしは個人的に軽蔑するけれど、
地震の事実を経験しても尚、そうであるならば、きっと彼らの心はもう、
そういう状態に固まってしまっているから、
どのような統制をしたとして、それは何の効力も持たず、むしろ反発を招くだけだろう。


桜はきっと 戸惑っているんじゃないかなと思う。


話題のセンターポジションに、
何だかネガティブに取り上げられてしまって。


桜の下で
一人の人間が、
悲しい出来事も、嬉しい出来事も、何事もが契機となって、
「去年と違う人間になっている」
花を愛でているその行為が、
「去年と違う意味をもっている」
そういう情景を、
きっとずっと見て来た。

愛でられない年も、きっとあったよね。

そんな気持ちに、なれない人たちばかりで。


だから、
桜はきっと、
そういう人間の変化に敏感でありながら、
逆にただ黙って、
そういう人間を見つめているのだと思う。


自粛だとか自粛じゃないとか
いちいち取り沙汰しなくても
自分たちの季節は
ただ粛々と、巡り巡って来たということを知っていて。


さてわたしはといえば、
恐らく、
桜に願いを託すような気持ちで、
桜を眺めに出掛けるのだと思います。


でも、きっと、いわゆる「お花見」じゃないなと思う。
自粛要請をされなくても、今のところ、あまりそういう気分になれない自分がいます。
そういう人も、実際多いじゃないかと思います。


それでも桜を見たいから、
きっとふらっと出掛けて、
この季節が、美しいだけじゃない事実があったということを
ぼーっと感じるのだと思います。

そういう事実があった中で、自分は生きていて、
また一つ歳を重ねるんだって確認するんだと思います。
(春生まれデスよ。)


みなさんも
みなさんのそれぞれの、
精神的に自由な春を、迎えているのでしょうね。

そうだといいなと、思います。

同じ事実を越えて、
違う感情を持って、
でも、
違う感情だから繋がっていないというわけじゃ、ない。
違う感情でも同じ目的を持っている、
そっちの方を、信じていたいと思っています。
$Rollingcatの越境レポート。

昨年の暮れくらいから、書道のお稽古を再開したのです。

12歳のときに、一旦区切りをつけた日本習字さんで、
およそ18年ぶりの修行再開であります。


墨の匂いは、いいですよね。


何しろ、脱臭効果があります。
(新年早々、チチが旧友を呼んで飲んだくれた…
還暦oyagisが、挙げ句「雑魚寝」して朝食までとって帰ったという
ヒドい惨状の部屋ですら、書をしたためた後には、さぁどうでしょう、
アルコール臭も、ヤニ臭も、一気にクリア!)


ドタバタで疎かになっていた3月号の課題のひとつが、
なんとなく今の気持ちにしっくり来て、書きながら、
震える。


「人世(じんせい)長夢(ちょうむ)の如し」
(意味:人の一生は、長い夢のようである。)


昨日、想像力、について書いて、
自分にできることのひとつ、について書いたけれど、
実際、
自分にできることはそれはそれで事実だけれど、
大切な人を亡くしたり、未だ連絡がとれなかったりしている状態の悲しみや不安、
今日明日の食べるものや休む場所への困窮や不安、
これから先の働く場所や生き方への絶望や不安、
そういった一人一人異なって抱える問題に、
「直接的な解決策」をもたらすことでないであろうことは事実だし、
そういった一人一人の体験や気持ちを、
今、東京で暮らすわたしがまったく同じに共有できないこともまた事実。


悲しいけれど
それは誰かの身に起こったことであって自分の身に起こったことではないという事実。

今回のことに限らず
今までどれだけの痛みを感じ、喜びを感じ、
学ぶエネルギーや働くエネルギーを傾けてきた、
教科書で学んだような歴史的な出来事、災難も幸福も、
誰かの身に起こったことであって自分の身に起こったことではないという事実。


共感と共有と
疎外と孤独とを
行ったり来たりするこの不安定な感情が
このごろ顕著だ。


だけれども分かっていることは
それは、誰かの身に起こったことであっても、
自分の身に起こっていたかもしれないことであり
自分の身に起こるかもしれないことである
と、
いうこと。


この課題の、短い文章の意味が
ポジティブかネガティブかは分からない。


いい夢もあれば
悪い夢もある。


けれども段々分かってきたことは
夢のような、夢かもしれない、
だから人生は、
想像できないことが起こり続け
自分がそのときどこにいるかも
そのときにどのように感じるのかも
想像できないことがきっとある。


そういう風に、思うこと。


諦観とまでは言わないし、
それは無理なこと、無理な状況は存在するのだけれど、
ある部分でそういう風に思うこと。


少なくとも、今は、今のわたしは、そう思っておくこと。


先人の、
夢のような人生を生き抜くためのひとつの工夫なのかもしれないと思って、
心に留めようと思いながら
黙々と書きました。