確か中学生の頃、『いまを生きる』って本で、読書感想文書いた(書かされた)なぁ…

 

内容を覚えているかいないかは別にして、

そういうフレーズが記憶に刻まれるということからしても、

(若い頃に受ける)教育ってすごく大きい。

 

で、

今を生きる、

が何なのかということを、時々ぼんやり考える。

 

 

なんかすごく大事なものだと思っている、「今」。

 

それゆえに、今、が怖い。

今、が失われることが、怖い。

そういうことを、思ってしまう瞬間が、いろいろあって。

 

 

例えば、

子育てしてると、

「今が一番かわいい時期だから、子どもとの時間大事にしてね」

って言われる。

 

今はすぐ逃げていくもの。

 

捕まえられないのに、捕まえてろって言われても、どうしたらいいものか。

 

「今しかできない」も、そう。

「今が盛り」(←何の?はいろいろあるでしょうが)とか、

今がベストなんだとして、それがどう失われてしまうのか、

今が逃げて行って、わたしには何が残るのだろうという、

先の見えない恐ろしさ。

 

若さが失われていくことに感じるどうしようもない寂しさの実感や、

子どもが、自分の手を離れていくときの寂しさへの想像。

何でもできる状態から、何かができなくなっていくことへの寂しさの想像。

 

 

ん??

 

だから、

今を大切に…

ってことなのか…?

 

でも、それって、この先は…

 

と、思想が堂々巡り。

 

 

今、は、明日、につながっている。

から、今を大切に生きることが、明日を大切に生きること。

でもそれって、逆説的なことも、あるよね。

 

 

今やりたいことが、

必ずしも明日のためになるとは限らない。

(今、浴びるほどお酒を飲みたいけど、明日、二日酔いでとんでも無いことになる…けど、飲む、のか、から、飲まない、のか。例えがしょうもないのですが。)

 

 

何だか、

今を生きるのか、

明日を生きるのか、

よくわからなくなってくる時間帯が、ある。

 

 

これって、

今、この歳、この立場、こういう暮らしの中で、結構初めて真剣に味わう、

戸惑いの感覚。

 

 

だんだんと、

手に持っているキラキラとしたもの…時間や体力や気力や…が少なくなっているような感覚の中で、

今、やりたいと思うことを、とにかく何でもやるべきなのか、

今のためなのか、明日のためなのか。

明日のために、やるのか、やらないのか。

 

 

 

これって、単純に、歳をとることへの恐怖心なのかな。

これって、女性ならではの恐怖感なのかしら。

 

 

男の人と話していると、何となく、この手の時間軸の感覚が、

すごくずれてる感じがする。

(だいたい、保育園児を見ていても、男子と女子とでは、時を駆けるスピード感が違うのだ。)

 

 

例えば、子どものこと。

子どもを、今、かわいがりたい気持ちで子どもを持ったわたし(だから、時が経つのが怖い)と違って、

子どもが育って行って、その子どもが何になるのか、また、歳をとった自分に何を与えてくれるのか、を現実的に(あるいは未来的に)考えている男の人って、多い(わたし調査)。

こないだ、「自分の葬式を出してくれる人が欲しいから子どもが欲しい」と言っていた人がいて、それは本当に、(何の判断をするでなく、一度も考えたことがないことだったから)びっくりした!

 

 

 

今。

 

 

今って何なの。

 

 

社会的、生物的に与えられている年齢は、誰にも同じようにあるかもしれない、

けど、

わたしが考えている今と、

わたしじゃない人が考えている今とは、

きっと違う。

 

 

過去と未来のどういう長さの途中にある今なのか、

どういう背景や意思を持って呼吸しているところの「今」なのか。

 

 

何が好きで、何が嫌いと思っている人の、今なのか。

 

 

ここの時間軸や重さがずれてるから、

人は究極的に孤独なんじゃないかと。

 

 

恋人とか(これはよく時間軸がずれてて別れたりする)、

夫婦でも(なんか阿吽の呼吸みたいになっていても、ずれてて、それに気づかず、問題は空回りする、溝は深まる)、

友達でも(悩み相談しても、なんか違うなーみたいなことは絶対ある)。

 

 

なんか当たり前のことなのに、

たぶん当たり前過ぎて、

誰も、はっきりとは教えてくれなかった。

そして、誰も正面切って確認したり、(あんまり)しない。

 


昨日、ミュージカル『cabaret』(松尾スズキさん演出♡)を観たのだけど、

サリー(「キットカットクラブ」の花形シンガー)、とクリフ(作家の卵)が別れに向かって行く日々のシーンで、

 

クリフ「(キャバレーのような場所で(自分を売って)働き続けている)現実を見ろよ!」

サリー「現実を見ろっていうけど、あなたはどうなの?!あなたも現実を見た方がいいわ!あなたとわたしの現実が違うっていう現実にね!」

(うろ覚え、確かこんな会話)

 

 

という迫真のやりとりがあって、

この現実っていうのと、今っていうのは、けっこう、被るんじゃないか、

と思って、

すごく胸が痛かった。

 

 

分かり合えないこと。

 

 

夢とか理想の自分とか、

歳をとるとかお金が必要とか、

どこまでの何をどう考えているのかっていうこと。

 

 

そんなこと考えるのか、考えないのかってことも、含めて。

 

 

そう、

life is a cabaret!ではないけれど、

そんなこと、考えちゃうところがそもそも厄介で、

そんなこと考えなければ、

きっと、もっと幸せなのだ。

 

 

つまり、今わたしは、

あんまり、自分の人生がどうとかこうとか、何も考えずに、生きたい気持ちがする。

…のかな。

 

 

正確に言うと、ちょっと先すら見えなくって、

今がどうなのかを、今をどう生きたいのかを、

決めきれない。

 

決めなくちゃ、考えなくちゃ、捕まえなくちゃというプレッシャーから、

ちょっと自分を解放して、

今を無為に過ごしていても、いいって。

 

そういう気持ちで、自分の戸惑いに率直に向き合いながら、

「ふらふら」を真面目に生きたい気持ち。