イブから当日にかけての、クリスマス仕様なラジオを聴くのが、好き。

 

いろんなhappyもsadも、なんか、もういいよね〜!?みたいなノリというか。

 

DJが何だか英語混じり(の喋り方)だったりして、

妙に軽快に聞こえるっていうのもあるかもしれないけれど、

「ああ、これこれ」っていう毎年耳にする、

見知らぬ誰かとの共通項的な音楽に安心して、

ネットワークっていうか、そういうものを感じて、

(ラジオ番組みたいなところにメールを投稿するっていうのは、

それなりに昇華されたものだからなのかもしれないけれど)

いろんなhappyもsadも、なんだかいろいろあるけど、まぁいいよねって、

たぶんメールしている人も、聴いているわたしも、思ってしまえてる…のは、

気のせいなのかもしれないし、

単に、この季節を好きだからだけかもしれない、けど。

 

 

夕方、図書館に本を返しに行った。

 

 

まじめに生きるって損ですか?

っていう、雨宮まみさんの本。

たぶん、初夏あたりに、ジャケ買いならぬジャケ借り(正確には、人気の本だったので予約待ち)をしたもので、

たぶん、その時の気分で、なんか知りたいことが書いてあるような気がした。

 

読みたいなぁと思った時に、

読まない(読めない)、

忘れた頃に、

読むことになる、

っていう巡り合わせもまた、

自分(の気持ちの移り変わり)を定点観測してるようで面白いものだ。

 

 

今だったらきっと、借りないと思う。

 

 

損か?得か?

という前提が、

すでに、息苦しい。

(この数ヶ月、いろいろな思考の変化をたどった。)

 

 

でも、読んでよかったと思う。

(パラパラっと、一気に、読める。)

 

 

いろんな苦しい心情の吐露と、

それへの受け答えや愛の詰まった、

やりとりの記録。

 

 

その中で、ひとつ、あぁ、これだなぁと思うエピソードがあった。

 

 

家事や仕事や育児やいろんなことを頑張ってる、

「とにかく褒められたくて、"褒め屋"をネットで検索した(んだかしようとしたんだか)くらい、つらい」

という女の人の話。

 

直接的には、すごく一生懸命毎日頑張って暮らしているのに、旦那さんに全然褒められない(大事にされてない)っていう、(よくあると思われる)悩み。

 

 

 

褒められたいという気持ち

認められたいという気持ち

 

 

これって、

職場や仕事の不満や愚痴でも、

大体を占めるものだと思う。

 

それで、

会社という場所には、評価とかフィードバックとか、そういう仕組みがあるけれど、

うまくいっていないことが多い(から、みんな愚痴をいう)、

ましてや、

そんな、誰かが決めた物差しも、時間の区切りも「ゴール」もないプライベートの関係や、日々の暮らしにおいて、

褒められたり、認められたりということが、

うまくいくのはすごく困難なんだという、

途方に暮れる、話。

 

 

「合コンのさしすせそ」(←36歳にして、最近会社の子に教えてもらった)に、

「さすが」とか「すごい!」があるように、

人は、褒められたり、共感されること(ただし、共感も、たぶんただの「そうだよね」じゃなくて、「そうなんだね(そういうこと考えてて、やってて、すごいね)」がないとダメな気がする)で、

気持ちがよくなる、「盛り上がる」っていうのが、ある。

 

 

この「盛り上がり」が、持続できたらいいのになぁ。

 

 

わたし自身も、

なんかずっと、

褒めてもらいたいとか、認めてもらいたいとか、思っている。

 

(承認)欲求不満。

 

でも、これって結構、危険な状態だと、思う。

 

 

一時的には、

なんとなく褒めてくれる人とか、ことって、あったりする。

(「褒め屋」があるとしたら、それもそうだと思う。)

 

「ドーピング的」な「褒められ」は、

中毒性があって、

上がって、

落ちる、から、

醒めた時に、すごく、不安な気持ちになったりして…。

 

 

その場しのぎの「褒め」は、

実際、褒める側になっても、自分の心が乾いていく気がする。

 

 

それで、この間、

すごく穏やかな人に、

なんかしっとりと褒められて、

じわじわと、

心が潤ったことを、

思い出した。

 

それは、なんでもない、

「(写真を見せながら)家にクリスマスツリーを出した話」をした時のことで、

「こんなに忙しくしているのに、こんな立派なツリーを飾って、素敵ねぇ」

というような、

本当に些細なことだったのだけど、

(わたしは、特にすごいというわけでもなく、普通のことをしたという感覚でいたのだけど、とはいえやっぱり、押入れかき分け出すのも片付けるのも、一人でやるのは結構大変だという気持ちがあった、その正直なところををふわっと思い出して)

すごく、「あ、わたし、素敵なわけだ?そう思って、いいんだ?」と、

じんわりして、嬉しくなってしまった。

 

 

その人の、話しぶりや態度から、

本当にそう思ってる、っていう気持ちが溢れ出ていて、

わたしは、

こういうことを語る時には、

テクニックじゃなくて、

言葉を支える、本当の気持ち、

尊う気持ちが必要なんだなぁと、

その人の顔を見ながら、
なんだかしみじみ、思ってしまった。

 

 

そして、そういう風に人を褒めてあげられることを、

本当に素晴らしいと、尊敬した。

(でも、相手に、そういう風には伝えられなかった。だって、その場の会話が変になる!)

 

 

相手のことを知ろうという気持ち、

相手の心の機微を察する力。

 


自分の足りないことを知ることも、

相手の足りていることや十分である(時に、十分すぎる)ことに気づき、

心を開いて、

尊敬したり、

感嘆したり感動したり、

それを伝えようという気持ちになったりするには、

必要なんだと思う。

 

そしてその前提には、

絶対的で穏やかな自己肯定が、必要なんだということも。

 

 

 

「褒められたい」っていう欲求そのものは、

すごく単純なもので、

誰しもが簡単に口にする(願っている)ものだと思うけれど、

それを可能にする(「(本当に)褒めることのできる人」を育てる、そういう人の側にいる)条件は、

案外に複雑で、

なかなか揃いにくいのかもしれない。

 

 

「褒められたい人」と「褒められる(褒めることができる)人」の需給が合っていない。

というか、

たぶん、心から褒められたら、誰かを褒めるということがどういうことかを感じ取って、褒めることができる人になっていく…

という、自己(相互)肯定の無限ループが、

どこかで滞っているのかな。

 

 

思い当たる人間関係が、あるような…という、自己反省もあり…

 

 

時々、甘やかし、に甘えたくなるのは、まぁよしとして(だって、やっぱり甘えたい)、

互いの、心からの褒めそやし、ができる人間関係を築けたら、人は幸せなのかもしれない。

 

 

ラジオの、ライトな(たぶんライトじゃない番組もたくさんあると思うけど)「すごいね!」も、好きだけどね。