夏も終わりそう、ですね。
すっかり、夜がやってくるのが早くなりました。


この8月に思ったことをあれこれと…


とはいえ、
8月は、この、でも、あの、でも、その、でも、
とにかく、日本の戦争と平和を感じないわけにはいかないわけで。


6日はちょうど週末だったから、
家で、子どもと手を握って黙祷をして、
「なんで?」
と言う、「なんでなんで期」の彼に、
「なんでか」
を話して聞かせたりして、
(分かったか、分かってないかは、分からないけれど)
原爆と戦争のことを、まさに、そしてかなり久しぶりに、声に出したっていうことも、あった。


声に出すと、
本当に、悲しい。
悲しみの正体は、過去への悔恨というよりは、
たぶん、現在への不安にあるんじゃないかと、
自分の手の中にある、
ふわふわしてあったかい、小さな手を感じながら、
自覚して、
そして、
どうしようと途方にくれる気持ちになった。


またある時は、
地方都市で開催の花火大会にお出かけ。

かなり目の前で大々的に繰り広げられる花火に、ちびっ子大興奮…かと思いきや、
我が子は打ち上げの音や衝撃に、
身体をビクッとさせて、泣いて嫌がって、
わたしにしがみついている。

せっかく連れてきたのになぁ!
と、残念な気持ちの傍で、
こんなに平和な、娯楽の火花も恐怖に感じるんだから、
戦争の音って、衝撃って、どんなに恐ろしいだろうと、
遠くシリアの子どもたちを想像した。

美しい煌めきを、眺めながら。


わたしたちは、日本で、今、生かされている。


たまたま、あの子はシリアに生まれて、
わたしは、わたしの子どもは、日本に生まれて。


田舎の夜、
夜空には、満天の星空。
星座盤に載っている星は全部見えるなぁ!
という星空を見たのも、
かなり久しぶりで、
あれがカシオペアだとか、北斗七星だとかを、
懐かしい気持ちと神聖な気持ちとで、
探していた。


星空には、いろんな思い出があると思う。
或いは、星がそれを刻んでいると思う。


そうしたら、
もう10年くらい前に、初めて南半球で見た、
「まったく懐かしくない」星空のことを思い出した。


南十字星。


知らない星空は、神聖というよりは、もはや恐怖の域にもあり、
旅行者として見物するにはいいけれど、
馴染むのには時間がかかると思ったこと。


そして、
戦争で、こんなに遠くの島々までやって来て、
死んで行ったたくさんの人たちを思ったこと。


懐かしくも温かくもない、
まったく知らない星空の下で、
お母さんのこと、妻のこと、恋人のこと、兄弟のこと、友人のこと…を思いながら
死んだ行った人たち。


かわいそう。
惨め。
寂しい。


誰が正義か悪かという話としてでなく、
ただ、悲しいということ、虚しいということを、思った。


戦争には、何にもない。
温かく生み出されてくるものが、何もない。
その時も、その後も。

悲しみも憎しみも、
ずっと、ずっと、続く。
現在のわたしたちの間にも、依然として存在しているように!


それでも日々は無為に流れ
あんなに鳴いていた蝉も、
すっかり大人しくなりました。


日々会社に向かう道すがら、
時々、目の前にポトッ!っと落ちてくる(死んで行く)蝉に、
「お前も、熱く生きてるか?」
って、言われてるような気がしながら、
何だかとぼとぼ歩いていたっけなぁ。


夏は、暑いし、寒いから(屋内が!)、苦手なの…!
と、自分に言い訳。


「この」8月は、結構ガツンと体調を崩して、病院に通ったり、心も身体もつらい時間があったりもしました。


それでも、
自分の命があって、
そして誰かの何かであることを、
ありがたく思ったり。

自分の欲しいものや成し遂げたいことって、
その正体は、自然なものなのか、人工的なものなのか、
疑う気持ちが出てきて気力をなくしたり。


浮きも沈みも
ありますわね。


電車で周りのことには何にも関心がなさそうにスマホをいじっている人たちを眺めながら、
でもきっと、
浮いてる人も沈んでる人もいるよねって、思ったり、
でもみんな、今、何らかの偶然で、同じ時代に同じ国に暮らしていて、
たまたま、「生かされていて、わたしたち幸せだね」って、
思ったり。


わたしたちは何か大事が起こった時に、
ともに生きられるんだろうかとか、
ともに力を合わせられるんだろうかとか、
温かいものを生み出す力になれるんだろうかとか。


不特定多数の人たちを意識して、
自分の内に篭り、
何だか相反する領域を、行ったり来たり。


社会も人生も、ますます分からない。
ますます、小さくて、大きい。


オリンピックのことが何もない8月雑記に我ながらドン引きだなぁ!
と読み返して思いましたが、
雑然とした気持ちの、
雑記ということで、
よし、と。


鈴虫が、鳴いています。