ブログを書きたいな書きたいなと思いつつ、梅雨も明けて夏も本番になってしまった!


Time flies. 


この季節が移り変わる間に、
日が長くなり、
空気の質感が変わって、
虫の音も、
匂いも、
そして、
季節の花々も次々と移り変わった。


雨の日、子どもの手を引いて保育園からの帰っていた時のこと。


そこらで目に映る花について、
「これは○○のお花だよ」
「あ、○○が咲いているね」
と、子どもに声を掛けながら、
む、この花の名前、何だっけ…ということになって。


うーん、なんだっけなぁ。
花の写真を撮ったら、Siriが教えてくれたりとか、そういうサービス始まらんもんかなぁ、とか、色気のないこと考えてたんだけど、
こういうとき、わたしの母なら、絶対に知っているはずだと思った。


先日、家族で訪れた旅行先でも、
わたしが「あ、ハナミズキが咲いてる!」と言ったらば、
「それは、ヤマボウシよ。」
と訂正。。。

えー、すごく似てる!

よくよく見れば、花や葉っぱの形が少しずつ違うのですが。


そんな風に、
母は、すごくたくさんの花の名前を知っていて、
そういえば一緒に暮らしていた時には、
どこそこの軒先になんの花が咲いたとか、
なんとかの花の香りを嗅ぐと何を思い出すだとか、
花の話題が日常にあったなぁ。

そして、当時、集合住宅にも関わらず、一階に住んでいたのをいいことに、
ベランダの下をテリトリーに、チューリップやら水仙やら、何やら植えていた。
(敷地がどうとか共有地がどうとかとやかくいう風潮でもなかった。)


雨の中、子どもの手を引きながら、
わたしが知らないことを母はたくさん知っているという事実に、
ただただ感じ入った。


母が知らないことを知っているわたしを、
いつも褒めたり驚いたり面白いと言って、
…それは、母が経験していない学校のこととか、仕事のこと、主に海外での暮らしのことなど、だけど、
そういうことを、“ちやほや”してくれて、
わたしも、「母よりたくさんの“すごい”ことを知っている」、ような、「勘違い」を、ずっとずっと、してきたわけだけど…


歳をとって、子どもを育てるようになってから、
以前はあまり気に留めなかったような、日常のことが気になるようになって来て、
そういう暮らしの端々のことで、
母は知っているなぁという、ことが、花のことに限らず、目立って気づくようになって来た。


同じ肉じゃがを作っても、
わたしが「時短」で手早く作ったものと、
母が鍋を火にかけながら、じっくり作ったものとでは、
味わいが結構違うように。
(その「時短」のテクニックも、手の早いことも、母は、「すごい」「えらい」と“ちやほや”してくれるわけだけど。)


それで、
たぶんどっちの肉じゃががスゴイ、ってことは、ないように。


どっちの肉じゃがも、
何か別のことのためにその味わいを変えていて、
その別のことの何がどう素晴らしいとか素晴らしくないとか、じゃ、ない。


(「おいしいね」「ごちそうさま」の会話は、同じセリフだけど、それを語る例えば家族の環境も、何もかも異なっているように。)


人に与えられた時間は平等である、
というありきたりな真実の中で、
わたしが何かを経験したり習得したりしている間に、
他の人はやはり何かを経験したり習得したりしている。

他の人が何かを知っていたり、できたりして、すごいなと憧れたり落ち込んだりすることがあるときにも、
きっとその人が知らないことやできないこと、感じていないことを、
わたしは受け取ってきたんだろう。


時間の使い方について尊いか尊くないかということは、
簡単には決められない。
(結果的に、得てきた称号や評判や稼いだ金銭の多寡ではない、のだと思う。)


わたしはわたしにしかできない時間の紡ぎかたをしていて、
誰かは誰かのそれを、
その豊かさや広がりを、
自分のことも他人のことも、
受け入れて、
向き合って、
いけるようになりたい。


時々狭い目や心がウズウズ、ズキズキと、
自分のことも、他人のことも、
責め立てたくなってしまう衝動に対しての戒めと、
母親への静かな尊敬と!


きっと、これからは子どもに対しても、
そういうことを思うんだろうな。


「まったく同じではない」時を過ごす、
もっとも身近な存在として。