わたしが学生時代からずっと尊敬している女性といえば
緒方貞子さんと黒柳徹子さん。
時代は変わり、わたしの考え方が少しずつでも変わっていきているとしても、
二大巨頭はここにあり。

で、このところの気分が大変に徹子さんモードで
(どんなモードか…)
そんなわけで、今現在は、
『窓ぎわのトットちゃん』
を読み直しているのですが
こういう気分のときに読むと、
文章や行間、その背景への想像から、「愛」や「優しさ」が溢れ出して、
ちょっとカサッとした心のひび割れに、しみていって、
涙が出てくる。

『窓ぎわのトットちゃん』を読んで電車で泣いている女子というのも、
何だか奇妙かもしれないですけれども。
基本的には、底抜けに明るくて、心優しくて、純粋な子どもたちのお話なわけだから。

特に仕事をしている時間というのは、
そういう愛や優しさは、不要とされがちというか。

ずっと、そういう環境への順応と戦ってきたような20代を経て、
時にじぶんの中でも、そういった感情の優先順位を下げるように
努力したり、或いは、本当に忘れてしまったりして、苦しんで。

30代になって、なんとか「じぶんがじぶんで居られる場所」を探して、
たどり着いた今日という日かもしれないけれど、
それでもまだまだ、いや、まだまだまだ、
多少の殺伐とした気持ちや苛立や、不安、
俗にいう「大人のストレス」というものを抱えているじぶん。

カサッと、気持ちが乾いて、
乾燥した部分は、
よくない諦めに変わって、潤うことを怠って行く。

でも、
やっぱり、否定できない、押し込められない、
じぶんを作っている純粋な感情、
パッションとか情とか、
そういう面倒くさいけれども、
母から、祖母から、受け継がれたような、
シンプルなコアがあることを、
感じざるをえないライフステージにも、
入って来たりして。

そういった身勝手でなく、機械的でなく、表面的でない、
じぶんのコアに、どんどんと近づいていく段階にある中で、
その感情的なじぶんに、改めて向き合いたいというように、
欲求が高まっているのかもしれない。

トットちゃんのように、
「黙っていられない」じぶんを、
必要以上に、否定したり、後悔したり、
しなくていいように。

それは悪いことじゃないし
それによって(とりわけ)仕事上、苦しむことや苦しめられることがあるとしても、
わたしはわたしなんだからと。

溢れ出てくる気持ちを
子どものような 
愛とか優しさとか好奇心とかいう「柔な」部分を
ただ、そこに出して、
傷ついても、それはそれでいいじゃないかと、
思えれば、それで、いいんじゃないかと。

例えば、男の人ばっかりの環境で仕事をしていなかったら、
こんなことに悩む必要もないのかな。

とか、そんな、「もしも」はさておいて…

気持ちが暖まるような
冬を過ごせるように
じぶんの真ん中と対話を続けています。

徹子さんの本を傍らに、山積みにして、
それらを手がかりに。
こんな幸せな時間も、もしかしたらないのかもしれないと
感謝も、しながら。