昨日、念願の映画「世界が食べられなくなる日」を観てきました。

遺伝子組換え食品と放射能汚染。

日本に暮らすわたしたちにも、とても深刻に関係してくる、
「食(の安全)」を脅かす、問題について、
フランス、国連、アフリカ、そして日本を行き来する視点で
実にドラマチックにまとめられた、
気迫こもる映画でした。


テクノロジーの進歩
資本主義の発展
経済や社会や意識は前進するのだという論理

一方で、人間の生命は、そのすべての前提にあるべき根源ではなかったか?
という単純な疑問。
倫理なんてう言葉を持ち出す以前の、基本的な立場、基本的な権利について
戦う人たち。


わたしは、
食べること 食べ物 自然的な治癒力であるとか
そういうものにとても関心がある、
ので、
この映画の根底にあるテーマが、
例え「アンチGM作物(genetically modified organism)に偏った」ものだと、
公正な視点でない、といわれたとしても、
大変に共感する部分の多い、
そして恐怖心を煽られてしかるべきと、
思うことになった。


そして、じゃあ自分のアクションは、どうしていこうかと。


最後に登場した福島の農家の奥さんが
「地球は全部繋がってるんだもの 海も空も…
地球全体で(原発に)反対だって言って行かないと…」(要旨)
といったようなことを言っていて、
もちろんこれは放射能汚染(原発の事故)についての感想・意見なのだけれど、
GM作物だって、
直接摂取していないといっても
どこにどういう風に入り込んでいるのか分からない(例えば、家畜の餌とか)。

一般人の目には見えない「連鎖」、多国籍企業・グローバル経済の連鎖の中で、
それは、海や空と同じように世界中で繋がっていて、
わたしたちを覆っていて。

放射能も、経済の連鎖も、目には見えない。
だから、怖くなくって、とっても怖い。

どこか(主に、先進国の科学技術や経済論理になるのだけれど)で発生した「毒」は、
そういう繋がりを通じて、
望むと望まざるとに関わらず、わたしや、あなたの生命を脅かしているとしたら。


わたしが真っ先に思ったのは、
やはり「選択肢」が奪われて行くというのが一番恐ろしいこと、ということ。

(3・11の時、食べ物を選ぶとき、自分で見えない、感じられない、政府や企業を
信じるしかない、という不安感と選択肢の無さからの従順・順応を殆ど初めて経験した
わけだけれど)GM作物でない、GM作物で育っていない、食べ物を選ぶ、という選択肢
・消費者としての権利が、奪われてしまうのが恐ろしい。

たとえどんなにお金を積んだとしても、
自分のアクセス可能な範囲に、選択できる食べ物がないとしたら?


何も食べ物に限ったことではない。
暮らしに使う用品だって、すべてに共通するわけで。


「資本主義との戦い」ほど、恐ろしく不可能で、先の見えないこともないように思う。
実際、これほど世界の人びとが組み込まれているシステムはないのだ。


だけれども、資本主義の端っこで、消費者としての権利を守るために、少しでもできること…
そのためには、
「選択肢を残すための選択」を、日々して行くこと、
そういう選択肢を提示しようと農林水産業に携わっている人たちや、職人さんや、
大きな流通に乗っかっていない人たちや物を、
少しでも選択していくということ。

もちろん、これには実際のところ生活コストがかかるので、
理想論だけで済まされないこともあるのだけれど…

でも、何かを選ぶときの優先順位として、大切な手段として、
取って、使って、行きたいという風に、
今まで何となく思っていたことを、改めて確認したのでした。


そう、映画を観終わって、そういう「何となく思っていたこと」と
一番、「違う!」と思ったこと。
それは、
一番大切なことは、
単なるethic、というのではない。
ライフスタイルとか価値観とかそういうのでもない。
かっこつけでも、偽善でもない。
これは、自分自身の自由と権利と健康、
人間らしさを守りたいという、
基本的欲求なんだということ。


映画『世界が食べられなくなる日』