今朝は、広島平和宣言を聞いてから出社。

どんなことを言うのかなぁっていうことで、
わたしの学部生時代の卒論テーマは、まさに、
「広島平和宣言の分析」
だったので(第1回~卒論執筆時までのすべての宣言を分析したのでした)、
毎年、市長の「言葉選び」がどうなるのかなっていうのは、
8月6日への想いとはまた別に、
気になることなのです。

わたしの「コミュニケーション」に関する関心
誰が
誰に
何を
なぜ
どうやって伝えるのか
ということへの分析的な関心は、
ヒロシマ to the world(なのかどうなのかが、これまたはっきりしない、
というのも、卒論の論点のひとつではあったのだけれど)
から始まっているので、
(そして職業にも繋がっているので)
気にならずにはいられない。

この、学生の頃の関心はもっぱら、
誰が 誰に
という部分が
特に背景知識を共有しない場合、つまり極端な例として、
所属している国家が違って歴史認識や視点がまったく異なる場合に、
「伝えたいこと(戦争や平和にまつわるメッセージ)」を伝えることは、
どのように可能になるのか、ということにあったのですが。
(大人になって、「背景知識を共有しない場合」は、どんなに近しい個人間でも
起こりうることだと分かったのだけれど。)

そんなわたしと平和宣言とのお付き合いの歴史(ささやかな)からすると、
今回の平和宣言は、
いつよりも踏み込んだ印象、明確なメッセージを発したという印象が、
ありました。

世界の為政者に対して、日本政府に対して。
そして多分、日本政府を支えている、一人ひとりの国民に対して。

背景としては、今年4月のNPT共同声明への日本政府の賛同なし、という状況や
日印の原子力協定交渉への危機感があるのでしょうが、
わたしが今回強く記憶したのは、
原爆、核兵器の、「絶対悪」という部分です。

「絶対悪」という言葉を使ったのは、きっと初めてではないですが、
(ここ10年くらいでは初めてだと思いますが)
今回はこのワーディングが度々登場しました。

こういう宣言とかスピーチ、
特に、「公式」であって、
尚かつヒロシマのように、
オーディエンスがぼやっとしている("世界中の人びと”とか。ましてや、日本を「加害者」
として原爆=成敗、処罰と考えているような背景知識の人たちが少なくない状況で)場合、
「絶対」というような断定的な言葉を選ぶことは、
リスキーなことと思われます。

すべての人が、当然否定すべきものとしての「絶対悪」。
(ちなみに、英文バージョンでは「the absolute evil」と訳されてます。)

どんな論理、どんな視点を持ち込んだとしても、否定すべきものとして。

すべてのコミュニケーションには
すべての背景情報がある
バランスであるとか 配慮とか そういうものが必要な場面も多々ある
特に政治の世界、歴史の世界では。
特に日本の、ヒロシマの置かれた環境においては。

とても複雑な立場にあるヒロシマの宣言が
どこかしらぼんやりしてしまう側面のあることは、
仕方の無いことなのだと、思っています。


そんな中にあって、今日のメッセージに、
「絶対」が強く持ち込まれていたことに
静かな潔さを感じました。

そして、救われたような気持ちになりました。

原爆投下、終戦から68年経って、
高齢化する被爆者の方々が居て、記憶の風化も、制度の整備も間に合わず、
世界はいっこうに平和にはならず、
日本は依然として「隣国」と争いの中にあり、心にさざ波が立つ日々も多く。

そんな焦りと混沌とした状況の中で、

「絶対、嫌だよね」

って、素直に、投げ出すように言える感じが
例えば泣きながら言える感じが
今、本当に大切な気持ちだしメッセージなんじゃないかって、
思います。


理屈抜きで。
スピーチ論とかなんやかんやの分析を抜きにして。


そういう気持ち、
つまり、
世界中の人が、いろんな背景情報をもつ「わたし」を取り除いていって、
一番素直になったとき、
そのときの「わたしたち」がもつ気持ちは
恐らく共有できたるものなんじゃないのか。


そうだったらいいのに、と、思います。
そうしたいのに。


今年も、
ささやかな期待と、小さな小さな決意とともに、
祈ります。

※過去の平和宣言集:
https://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/0000000000000/1111135185460/index.html