家に帰る道すがら、喪服の集団とすれ違い。

でも、やけに賑やかで、
笑いながら 幾人かは赤ら顔で
何だか慶事のよう、
だけれどもやっぱり弔事のようで、

「お焼香の時、笑っちゃいそうだわよ!」

なんていう会話をしながら、信号待ちながら、みんな笑顔で。

不謹慎かもしれないけれど
(そして、憎き生涯の仇が死んでにんまり、というシチュエーションであれば、
多分に恐ろしいけれど…)、
もし、これが、
「ああ、(この亡くなり方は)笑っちゃうほど本当にあの人らしくて、すっきり」
なんていう仲間内の微笑ましい?エピソードであれば、
こんな爽やかで贅沢な終わり方もない、なんて思ったりした。


以前、上司が、自分が死ぬときには、
「出会った人たちに、何て面白い人だったんだろう」
と言われて(思われて)いたい、と、そういう死に方をする生き方をしたい、
というようなことを言っていたことを
たびたび思い出します。

わたしはまだ、
死に方のための生き方まで、はっきり言語化できていない。

ただ、後悔したくないという思いだけで、今を生きていて、未来を生きていて。


どんな死に方ができたら幸福か。

「自分の死は、自分のためでなく、他人のためにあるもの」
とは、養老孟司さんがある講演で言っていたこと。
これはとても大切な真実で、自分が死ぬとき、自分のことはもう、自分は忘れているから。
自分が死ぬとき、いわゆる「遺された人」にしか、自分は残らない。
それでは、どんな死に方をしたら、周囲の人が悲しまないで済むのか、
優しい気持ちでいられるのか。



そして、死に方を考えられることもまた、幸福なのだと分かる。

一年前の明日に亡くなった人たちが、
死に方なんてものを考えている余裕もなく、
渦に飲まれたこと、恐怖に押しつぶされたことに行き着くときに。



生きた自分は 誰かのためになる死に方を、考え、実行する責務があって、
彼女に後悔はないだろうと、
遺された人すら納得できるような生き方を貫く希望を与えられたということ。


本当は、できれば誰もが、
やんわりとした陽射しの中で、
周りの人たちを優しい気持ちで包んだままに人生を終えられるような、
そんな社会が幸福なのだろうから、
自然災害や人災や事故や、
不意に人の命を奪う出来事はたくさん世の中にあるわけだけれども、
そのどれか一つでもを取り除いていくような
ほんの小さな力にでもなりたいという気持ちを新たにして、

亡くなられた方にご冥福を祈り、
避難を続けられる方々のご苦労を想い、


明日を迎えます。