出張続きで飛び回っているうちに
3.11が過ぎ去って、
気の抜けたような春分の4連休も最終日で
今日はこれから、美味しいイタリアンを食べに行く。

こうやって
わたしはきっとあっという間に時を重ねて
いつか何かの出来事によって 死ぬのだろうなと思うと
その出来事が具体的に何か分からない(事件か事故か、災害か、病気か、寿命か)、
けれども、
それは、そういう役回りが与えられたのだと感じるようになったのも
どこかで恐怖心と闘いながら 平静だったり 平静を装っていたりする震災後の日常、
それを生き抜く、ある意味必死に生き抜く、
平凡な自分の、自分なりの心の落ち着かせ方かもしれないと思う。

不意の死、人災による死、
そういったものもすべて、役回りで片付けるのか?
という、不謹慎さ、無神経さがあることも承知で、
ただわたしはやっぱり、当事者意識をもって、「今回は自分じゃなかったんだな」と、
去年のあの日から、原発事故の進捗に息をのみつづけた間、そういう風に思って、
怯えながら、でもはっきりと、考えていた。

今回、自分は生かされたんだと、死んだ人の後に残った自分は、
残されたものとして
これから何を生み出し、生きて行こうかと。

余震に目が覚める朝方も
次の瞬間には、
ああ、(死ぬのは)今日じゃなかったんだな、という風に思うようになった。
まだ、生かされるんだな、という風に。

それは、いつかは自分かもしれないという覚悟があるという意味で、
傍観者的な感想や、ロシアンルーレットのような運試しの話ではない、
ということを、明確にしておきたいのだけれど。


自分でも自分のこの感覚が整理できないのだけれど、
たぶん、
わたしが生きている時間に、死んで行く人がいる、という事実、
その日、その時、その瞬間に、そこに居たから生きた人がいて、死んだ人がいて、という事実。
きっとあたり前の事実で、
似たような問題は様々にあること(事件や事故や、貧困や紛争や戦争など)を知りながらも、
きっと最も実際的に体感したのが、震災の出来事だったのだと思う。

だから、
わたしが生きている時間に、死んで行く人がいる、
そうであれば、生きている自分は、生かされた自分は、
死んで行く、その人(たち)の熱量までもを取り込んで昇華させるような
「個人」としてというよりは「人間」としての生き方ができないかと。

「人間」というのか 日本人というのか地球人というのか人類というのか
くくり方がよく、分からないのだけれど、
わたしという個人から離れて、
一歩、二歩離れた、「存在としての役割の全うができないのか」と。


ちょうどその頃、
Kazuo Ishiguroさんの著作『Never Let Me Go』を読んでいる最中で
震災の出来事と直接関連する話では全然ないのだけれど、
誰かの「生きる」「生きたい」目的、その幸福感の達成が 
誰かの「死」という、明らかな一対一の犠牲のうえに成り立っていて
(この場合、犠牲になる人間は、その運命を知っていて、その運命しかないことも、知っているのだけれど)
その犠牲のからくりを知ったわたしたち(読者)は
やるせない気持ちになりながらも 
自分や自分の大切な人が幸福に「生き続けたい」という、
ごく普通の「生きる目的」に黙るしかないような
きれいごとは許されないような
現実に直面するのです。

一方で、「生きる目的」、というのか、
「生きることの目的が生きることになる」というような目的と手段がごちゃごちゃになるような
そういう複雑な状況、それに対する多少のエゴイズムも、感じるわけです。


じゃあ、
自分は、自ら進んで犠牲になろうとか そういう話ではなく。


生かされていること それは何かのためであって 生きるためでない


ある視点から見れば、贅沢な話です。
その日暮らしで、生きることもままならないのであれば、
生きることが目的化してもいいじゃないかと。

いいと思います。
全然、いいと思います。

目的達成のためには、生きるという手段が必要だから
わたしだって、生きようと思います。

健康診断にも行くし、カラダにいいものも適度に食べる。
運動もするし、睡眠も取る。

でも多分、肩肘張らずに、そういう震災のような大きな危機に立ち向かおうというとき、
・・・これからの人生に起こりうる危機を乗り越えようというとき・・・
生きようということが目的になると、
あのときの途方に暮れるしか無い恐怖心が湧いて来て、
わたしはどうにも自信がなく、崩れ落ちそうな気持ちになる。


多分、命の責任を、自分個人ではないどこかに、置きたいのかもしれない。
命の責任にこだわりだすと
恐ろしい出来事に 精神的に対処できなくなってしまうんじゃないかという
恐怖心かもしれない。

だから、
まだ生かされている、その時間に、できることをしたいという、
個人としてというよりは その時間を生きる人間として 
人間のもっている熱量(たまたま、今のわたしが持っている熱量、誰かが失った熱量)
を、繋いで行きたい、
それが、生きたい目的になるのじゃないかという、
ただそれだけのシンプルなことで、
誰に押し付けようとか、そういうイデオロギーではないのです。


震災の後、ずいぶんとこういうメンタリティーにあることを、
語ることのカタルシス。


きっといろんな人に、いろんなレベルの影響を与えた出来事だったと思う。
語ることにカタルシスが
誰かに、また影響することがあるでしょう。


「被災地」でないところでは、その影響を目にすることはもうほとんどないけれど
(スーパーの棚に、今日もびっしりと食品が並んでいた)
思い出したときには 不安に駆られるときには、
語りたいときには、
語りたいと思うし 語り合いたいと思う。

語って
自分が 個人であっても、人間であることを確認したいという、
それがわたしなりの、3.11の乗り越え方だと思う。

Never Let Me Go/Kazuo Ishiguro

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