師走ですねー


っていう挨拶を
一体日本人はいつまで繰返すのか知らないが、これがいわゆるカルチャーってやつ、
なんだろうなぁというのを何となく思う。


12月ですねー とか 年末ですねー とかよりも
何だか
今年の締めくくりと新年を迎えるにあたっての
浮ついた感じが、もっともよく感じ取れる表現であるのに、間違いは無い。


「師走ですねー 
 いつもは落ち着いている先生でも、走ってしまうような
 めまぐるしい季節ということで…」

って、
ヨガの先生も説明してたけど。


師走というカルチャー的な決まり文句を その意味にさかのぼってしまうと
ちょっと違うだろう?と思って
わたしの集中力は、異なる方向へと飛んでいくわけで。


大体

落ち着いている先生になんて 出会ったことはないのだ。
かつて。

小中高といろんな先生に出会って来たけれど
怒り狂う先生とか 愚痴ばっかりいう先生とか 泣き出す先生とか
自分の主義主張ばっかり押し付ける先生とか 
好き嫌いの激しい先生とか。
…うーん 先生運が悪かったのね、きっと。

それでわたしは大体、先生という存在は、子どもよりも随分と子どもっぽいもんだと
感じていて
特に 中学生の頃は、そういうちょっと冷めた視点で学校に出掛けていたので
(そして、当時考えられないくらい虚弱だったために”出掛けない”日も多かったので)
多分に厄介な生徒だったのかもしれない。

それが証拠に、ある社会の先生は わたしのことを「悪魔」と呼んでいた。

授業中でも、どこでも、誰がいても、わたしのことを悪魔と。

今思えば、それって教師としてかなり問題ある態度だとは思うけれど
とりわけ わたしは何も 誰に迷惑を掛けたわけでもなく
大人しくしていたわけで
でもまぁ、先生に悪魔と呼ばれるほどの恐ろしさが
わたしのどこにあるのでしょう?くらいに思って
それはひとつのアイデンティティ探しのきっかけになったようなところもあり。


女子が挙って目指すのが「小悪魔」だとして
わたしはすっかり昇格した「悪魔」だったわけで
敢えて小悪魔になろうなんて だから未だかつて思ったこと、ない。


小悪魔 と 悪魔の間に、どれだけの可愛気のギャップがあるのかはしりませんが。


悪魔はねー 可愛くは、なさそうよね。


でも悪魔は本当は
人の心を静かに掴んで離さない
柔らかさと本質を持っている。


と思うようになった(否信じるようになった)のは
多分、正義とか白黒の嘘に 気付き始めた頃からで、
もうちょっと大人になってからかもしれない。


そこに本質があるから
ひとはそれを恐れる。


「天使のようにしたたかに 悪魔のように繊細に。」


幻冬舍の見城社長が、著書の中で語っていたのを発見したとき
中学生の頃の自分がふっと笑った気がした。


知らずとも知っていたのかもしれない そのスタイルを。


師走という一言から
先生が走るというその一言から
わたしの思考は遠くを巡って帰って来て
寒い冬の東京の今日に居ます。

多分に、悪魔のままで。