自分がパッションを持てるものを探し求めている。

探し求めて、ここまで来てみたけれど、
結局それ(=マーケティング)は手段であって、
目的ではない、ということが明らかになってきた。

手段として、まだまだ学ぶところは多いけれど、
問題は、
結局それを、何に使うか、だ。

単に、わたし自身の生活のために、使うつもりは毛頭ないのだから。

「頭で考えていてもパッションは湧いてこない」

うん、
それは、パッションなのだから、当たり前の話。

けれど今日もわたしは、自分のパッションが何によってもたらされるのだろう、
それは組合わさると大きなことになるのだろうか、否かについて、
ただ並べ立てて、
結局それを料理しきれずに、
ぼんやりと、待っている。

そして、
「待っていても、パッションはやってこない」
ということも、
また当たり前の話なのである。

「パッション」は、イエス・キリストの受難も表す言葉。

宗教にはあまり詳しくはないし、
その重みと、自分の進むべき道に向かっての迷いや苦しみを、
重ねるつもりは、ない。

けれども、
或いは、「その、パッション」、のように、
自分が何かに向かって、駆り立てられ、還元され、
それによって幸せを感じられるという、
そういう風に生まれてきたはずだ、ということだけは、
事実であると信じている、
それだけの話なのである。