幼い頃に親によく訴えたものです。
「友達の親はあのおもちゃ買ってくれてるのに、何でうちは買ってくれへんの」
つまりは
「みんな買ってるんだからあなたも買ってよ」
という旨のメッセージ。
今思えばかなりのパワーセンテンスですね。
日本人なら特にひっかかるというか
「右に倣え文化」が染み付いた者にとっては必殺の文句である。
しかしながら返す刀で
「よそはよそ!うちはうち!」
というワールドワイドな言葉を放つわけだ。
その言葉に対して更なる言論武装をしていないので
ただただダダをこねていた日々。。。。
そんな少年キタオも時を経て、いつしかワールドワイドな思考になっていく。
とはいえ、やはり日本人的な思考は完全には消えていないし
どちらかと言えば、「ワールドワイドな思考がわかる」ようになったという方が近い。
周りの皆が「たまごっち」を持とうが
「三本線のシャカシャカジャージ」を履こうが
「プレステ2」を楽しもうが
「携帯電話」を持とうが
そのタイムリーな流行りに巻き込まれることなく
「うちはうち」という信念を貫いていけた青春時代。
もちろん同時に劣等感を抱いていたのも否めない。
そんな感情を持たなくてもいいのに、日本人の血がそう感じさせるのだろうか。
人生観においても、逆に親から
「みんな会社に勤めているのだから、あなたもちゃんと働きなさい」
と言われたことは数知れず。。。。
しかしなぜかこのテーマにおいては「よそはよそ!うちはうち!」というのが通じない。
会社に属することなくお金を稼ぐことだって可能だし、生活水準の差はあれど
何とかやっていけるだろうし、個人個人での人生プランというのがあるだろう。
しかし、まあ日本の一般論として「会社で働け」となるでしょうが。。。汗
某テレビ番組で身体に障害を抱えた人が富士山登頂に挑むという企画があったが
それも「こんなに頑張ってる人がいるんだからあなたもくじけず頑張って」
というメッセージを訴えているのだろう。
これに関しては「同調派」と「よそはよそ!うちはうち!派」が真っ二つに分かれるだろう。
いくつか例に挙げたが
それに対して同調するのか、よその考えと無視するのか。
一見すると「よそはよそ!うちはうち!」のスタンスで生きている方が
一貫性があり、オリジナルな人生を送れるような気がするが
よく考えると、かなり固執した概念であり
やがては時代やら周りの人に取り残されてしまうような気がする。
自分自身は楽しくやっているように見えて、周りから見ると「天涯孤独の変人」みたいに
扱われてしまうかもしれない。
少なくとも心の3割ぐらいは「同調性」というものが必要なのではと最近は感じる。
個人として「オリジナリティ溢れる人」でありたいけど
「変人」とは思われたくないですから。。。汗
少なくとも周りの人に見放されるような人物だったら、この職業オワコンですよ。
なんたって日本で生きているなら尚更ですかね。。。
「同調」というとあまり響きは良くないが
言い換えれば「寛容性」なのだろうか。。。
「そういうやり方もあるよね」的な捉え方で。
寛容と固執のバランスを自身でコントロール出来れば、快適な人生が送れそうな気がする。
そして、その比重は人によって様々だということを認識して
コミュニケーションをはかっていかなければならないと。
「同調談」で救われる心もあれば、怒る心もある。
「固執談」も然り。
言い方、伝え方というのは本当に奥が深いですね。
誰かにとって私が「難しい人」にならないようにも心掛けていかねば。
かなり乱文でしたが
こんな話を前にしましたっけ???汗