西暦(グレゴリオ暦)AD2026年 令和8年 平成38年
昭和101年 大正115年 明治159年 皇紀2686年 干支 丙午(ひのえうま)
第3木曜日 旧暦 6月 3日、友引、月齢 1.8
グレゴリオ暦で年始から197日目、年末まであと168日。
誕生花 ジンジャー・アマリリス・ストック。
籔入り(後の薮入り)。
かつて商家等に住込み奉公していた丁稚や女中等の奉公人が、実家へ帰ることのできた休日。1月16日と7月16日がその日に当たっていた。7月のものは「後(のち)の藪入り」とも言う。藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは、江戸時代である。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において、嫁が実家へと帰る日であったとされるが、都市化の進展に伴ない、商家の習慣へと転じた。関西地方や鹿児島地方では、オヤゲンゾ(親見参)等と呼ぶところもある。六の付く日に行なわれることから、関西では六入りとの呼び名もある。藪入りの日がこの2日となったのは、1月15日(小正月)と7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で、実家でも行事に参加できるように、という意図であったとされる。その内に、地獄で閻魔大王が、亡者を責め苛むことを止める賽日であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行なわれ、縁日が立つようになった。藪入りの日となると、主人は奉公人達にお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出した。実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだ。また、遠方から出てきたものや成人したものには、実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物や買い物等をして休日を楽しんだ。因みに、上の者から一方的に何かを押付けられること、強要されることを、「おしきせ」と言う。意味からして、「押し着せ」を思い浮かべる向きもあるが、「お仕着せ」と書くのが正しい。江戸時代、大店に奉公している者に対して店の主人は、季節に合わせて衣服を支給するのが当然のことであり、これを「お仕着せ」と称した。今でいう、従業員に制服を支給するようなもので、元々は、悪い意味で使われた言葉ではない。明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行なわれると、藪入りは正月と盆の付随行事であったため、正月の新暦移行に伴ない、そのまま新暦へと移行した。文明開化(明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象)後も商家の労働スタイルにはそれ程の変化はなく、さらに、産業化の進展に伴なって労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となった。藪入りの日は、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区の東部)浅草等の繁華街は、奉公人達で賑わい、中でも、活動写真(映画)等はこれによって大きく発展した。活動写真は、明治・大正期における映画の呼称で、元来は幻灯機(写真を見るための光学器械、スライド映写機の古典的呼称)のことを指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。単に活動とも呼ばれ、自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは、大正時代後期になってからである。活動写真は映画の昔の呼び名ではあるが、映画とは意味が少々違い、活動写真は、荒唐無稽な時代劇や演劇の実写化したもののことを指す。大正時代に起こった純映画劇運動によって活動写真は、芸術的水準を持ち、活動写真とは一線を画した映画へと生まれ変わっていった。純映画劇運動では、欧米映画を模範としつつ、女優の起用(女形の廃止)、字幕の使用(活動弁士の廃止)、自然な演技、物語内容の現代化、映画的技法の重視、演技・演出の写実化等を唱えて、歌舞伎や新派劇の影響を強く受けている従来の日本映画(活動写真)の刷新を図った。大正関東地震(関東大震災)の影響で運動は終焉したが、これにより、日本映画界で女優の起用が一般化し、演出技術も発展、「活動写真」が「映画」へと変わる大きな転機となった。第二次世界大戦後、「労働基準法(昭和22年4月7日法律第49号)」の強化等により労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると藪入りはすたれ、正月休み・盆休みに統合されるようになった。藪入りの伝統は、正月や盆の帰省として名残を残している。藪入りの語源には諸説あり、はっきりしない。藪の深い田舎に帰るからという説、「宿入り」(実家へ帰る)からの転訛等の説がある。なお、同様に大奥の女性達が実家に帰ることは「宿下がり」と呼ばれる。藪入りは、奉公人達にとっては年に2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントであったため、これに因んだ小説や俳句、落語(「藪入り、旧題:お釜さま」等)等も多く残っている。
盆送り火。
盆の最終日。祖先の精霊を送る為に火を焚く。また、祭壇に供えたものは精霊船に乗せて川や海に流す。なお、盆は、伝統的には、旧暦7月15日に当たる中元節の日に祝われた。日本では、1873(明治6)年1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、ほぼ全国的に多くの地域で新暦8月15日(月遅れの盆、旧盆とも)に行なわれている。なお、同じ仏教でも浄土真宗では、死者は全て極楽に往生しているとして、迎え火、送り火等の行事は行なわないという。 海の送り火としては、「灯籠流し」が全国的に行なわれている(「精霊流し」と呼ぶ地方もある)。地方によって、その由来や意味合い、行事の内容、行なわれる時期等はそれぞれ異なっている。「精霊流し」は、長崎県の各地、熊本県の一部、及び佐賀市で盆に行なわれる、死者の魂を弔って送る行事のことである。初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花等で飾られた「精霊船(しょうろうぶね)」と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、「流し場」と呼ばれる終着点まで運ぶ。毎年8月15日の夕刻から開催され、爆竹の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒の中で行なわれる。「精霊船」は、山車(だし)を連想させる華美なものであり、見物客が集まる。「祭り」と誤解されることもあるが、あくまでも故人を追悼する仏教の行事である。初盆でない場合は「精霊船」は作らず、藁を束ねた小さな菰(こも)に花や果物等の供物を包み、流し場に持っていく。
閻魔賽日、十王詣。
正月16日と7月16日の閻魔賽日(地獄の釜の蓋が開いて鬼も亡者も休むとされる日)に、寺院で十王図や地獄相変図を拝んだり、閻魔堂に参詣したりすること。十王とは、地獄にいて亡くなった人の罪を裁く10名の判官のことで、特に、閻魔王のことを指す。閻魔は、冥界(死後に行くとされている世界)の王として死者の生前の罪を裁く神で、日本仏教においては地蔵菩薩と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされている。後に閻魔の本地(本来の姿)とされる地蔵菩薩は、奈良時代には経典『地蔵十輪経』によって伝来していたが、現世利益優先の当時の世相の下では普及しなかった。平安時代になって末法思想(仏法が衰えて世の中が乱れるという思想)が蔓延するに従い、源信(天台宗の僧で、恵心僧都と尊称される)らによって平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教されるようになり、鎌倉初期には経典『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略して『地蔵十王経』)が生み出された。これにより、閻魔の本地が地蔵菩薩であるとされ(ここから、一部で言われている閻魔と地蔵とを同一の尊格と考える説が派生した)、閻魔王のみならず十王信仰も普及するようになった。本地である地蔵菩薩は、地獄と浄土を往来できるとされる。藪入りの日に、余暇を使い閻魔堂に詣でたり、芝居等を楽しむ奉公人が多く、昔は1月16日と7月16日を「閻魔賽日」や「初閻魔」と呼んでいた。