西暦(グレゴリオ暦)AD2026年 令和8年 平成38年
昭和101年 大正115年 明治159年 皇紀2686年 干支 丙午(ひのえうま)
第1土曜日 旧暦 3月16日、赤口、月齢 14.6
グレゴリオ暦で年始から122日目、年末まであと243日。
誕生花 フロックス・スズラン。
二十四節気・雑節等
八十八夜。
雑節。立春から88日目。「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」等と言われ、遅霜(終霜日[その冬最後の霜の降りた日]の平年値より遅く降りる霜)の時期と言われる。一般には、霜は八十八夜頃までと言われているが、「九十九夜の泣き霜」という言葉もあり、5月半ば頃まで、泣いても泣き切れない程の大きな遅霜の被害が発生する地方もある。そこで、農家に対して特に注意を喚起するために、この雑節が作られた。元々、太陰暦がベースである日本の旧暦では、暦日と季節が最悪で半月もずれるために、新暦(太陽暦)をベースとした雑節として起こり、広まったものでもある。八十八夜は、日本独自の雑節である。また、唄で知られる一番茶摘みの頃でもある。21世紀初頭の現在では、平年なら5月2日、閏年なら5月1日である。数十年以上のスパンでは、立春の変動により5月3日の年もある。この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きする、とも言われている。茶の産地である埼玉県入間市狭山市や静岡県、京都府宇治市では、新茶のサービス以外に手もみ茶の実演や茶摘みの実演等、一般の人々も参加するイベントが行なわれる。文部省唱歌は、明治から昭和にかけて文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)が編纂した、尋常小学校、高等小学校、国民学校、及び学制改革後の小学校の唱歌、芸能科音楽の教科書に掲載された楽曲の総称(但し、文部省が定めた正式名称ではない)であるが、その文部省唱歌の中に『茶摘』がある。作詞作曲共に不詳の『茶摘』は、「摘」という字を小学校で教えないため、教科書では『茶つみ』と表記している。初夏に見られる茶摘みの光景を歌った歌で、1912(明治45)年に刊行された唱歌(教科)の教科書『尋常小学唱歌 第三学年用』が初出となる。2007(平成19)年には、文部科学省の外局(省内に置かれる、特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織で、独任制の庁)の1つである文化庁と、日本PTA全国協議会(全国のPTA[保護者と教職員による教育団体]の協議会組織)が、親子で長く歌い継いでほしい童謡・唱歌や歌謡曲といった抒情歌や愛唱歌を選定した「日本の歌百選」に選ばれた。また、小児が2人組で向かい合って行なう、「せっせっせーのよいよいよい」で始まる手遊び歌としてもしばしば用いられる。この手遊びでの繰返しの動作は、茶葉を摘む手つきを真似たものとも言われる。八十八夜を漁の目安とする所もあり、瀬戸内地方では俗に、魚島時(うおじまどき)と言われる程、豊漁の続く頃と言われ、種子島や屋久島では、トビウオ漁開始の時期とされていた。但し、この日が全国各地で農事等の目安にされているとは言え、東日本では、実際の終霜日がそれより遅い所は少なくなく、伝承通りに八十八夜を基準にして実作業を行なっているとは、必ずしも言えない。
満月。
望。月と太陽の黄経差が180°となる日。天文学的満月。旧暦の十五夜とは一致しないことが多い。なお、旧暦八月の十五夜は、「中秋の名月」と呼ばれる。「中秋」という表現は、「秋の中日(ある期間の真ん中に当たる日)」であることから、旧暦8月全体を指す「仲秋」とは区別される。満月 (望) の月齢は、13.9日~15.6日と大きく変化する。旧暦15日は月齢14.0を含む日で、月の満ち欠け周期の半分は約14.8日となるため、平均的には満月 (望) が後になり易いと言える。
緑茶の日。
古くから八十八夜の新茶は「仙薬」(飲むと不老不死の仙人になる、ということから転じ、非常によく効く薬のことをいう)と称される程栄養価が高いと言われたことから、東京都港区東新橋に本部を置き、茶の関係団体を中心として組織された、日本茶、及び茶文化の振興を目的とする社団法人、日本茶業中央会(現在は、公益社団法人となっている)が、毎年八十八夜の日を緑茶の日と制定した。八十八夜は年によって日が変わるので、平年は5月2日、閏年は5月1日に固定して実施している。緑茶は、チャノキ(ツバキ科ツバキ属の常緑樹)の葉から作った茶の内、摘み取った茶葉を加熱処理して発酵を妨げたものである。また、それに湯を注ぎ、成分を抽出した飲料のことでもある。日本においては、日本茶と同意に使われることが多い。日本茶(煎茶、ほうじ茶、抹茶等)はその多くが緑茶であり、日本で最も良く飲まれている茶である。中国茶もジャスミン茶として飲まれるものを含め、緑茶に分類される物が主流で、中国や台湾で最も飲まれているのも緑茶である。近年、健康志向の高まりもあり、多くの飲料メーカーから、缶やペットボトル等の緑茶飲料が発売されている。
新茶の日。
立春から数えて88日目の日となる雑節の「八十八夜」。この日に摘んだ新茶は上等なものとされ、この日に新茶を飲むと長生きすると伝えられていることから、静岡県掛川市伊達方に本社を置き、茶園管理から緑茶の製造までを一貫して行なう製茶問屋、山啓製茶株式会社が制定。新茶の試飲や販促活動を行なう。山啓製茶株式会社は、静岡県知事認定の金箔入煎茶を始め、黒豆入抹茶入玄米茶、純金箔入大福茶、金粉入抹茶入玄米茶、いちご茶、さくら茶、夏みかん茶、ゆず緑茶等を販売している。
鉛筆記念日/えんぴつ記念日。
1886(明治19)年5月2日、起立工商会社(明治時代初頭、日本の美術品や物産品を世界へ輸出した日本の貿易会社)に勤務していた眞崎仁六が、1878(明治11)年のパリ万国博覧会(フランスの首都パリで開催された3回目の国際博覧会)で目にした、鉛筆の国内製造を決意した後に努力を重ねて、眞崎鉛筆製造所(東京府豊多摩郡内藤新宿町[現在の東京都新宿区]に所在)を創立し、国産初の鉛筆を製造した。この眞崎鉛筆製造所は、現在の三菱鉛筆株式会社のルーツとなった。1901(明治34)年に、国産初の量産型鉛筆3種類(『局用鉛筆』)を、当時の逓信省(後の郵政省、現在の総務省・日本郵政・日本電信電話[NTT]グループ)への納品に成功。これを記念して1903(明治36)年には、「3種」や創業者の家紋「三鱗(みつうろこ)」等を表わす意味で、赤い三つの菱形を模した「三菱」を、ロゴマークとして商標登録している。なお、三菱財閥(海運と商事を中心に事業を展開し、造船業・鉱業・鉄道・貿易等、あらゆる分野に進出した、日本三大財閥の1つで、現在の三菱グループ)が商標登録を行なったのは、1914(大正3)年のことである。三菱鉛筆株式会社は、日本の文房具メーカーで、鉛筆、シャープペンシル、ボールペン、サインペン等を製造・販売する。1918(大正7)年に神奈川県横浜市神奈川町(現在の神奈川県横浜市神奈川区)に色鉛筆製造元である「大和鉛筆」が誕生し、眞崎鉛筆製造所と合併して「眞崎大和鉛筆」となった。1952(昭和27)年には、正式に社名を「三菱鉛筆」と変更し、現在に至る。「三菱」の名称とスリーダイヤは、三菱財閥よりも約10年早く登録されている。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態、財閥を軍国主義と封建主義の精神的支柱であるとし、日本の経済民主化政策の一環として、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が断行した財閥解体では、その連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)ですら、三菱財閥の系列と勘違いして、商標の使用禁止を迫ったのに対し、当時の経営陣が、財閥とは関係ない旨を再三反論し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を退けた。その際「商標が『非財閥』であることを社告で公告し、製品にも明記する」という条件が付けられたため、当時の製品には、「NON財閥」「非財閥」と、財閥三菱とは関わりない旨が記載されていた。三菱鉛筆株式会社と、三菱財閥の後身である三菱グループとは、文字もロゴマークも同じであるため、混同された上に、不買運動を提起されたこともあるが、旧三菱財閥系列に属する金融持株会社、株式会社三菱UFJフィナンシャル・グループや、大手総合商社の三菱商事株式会社、日本最大の機械メーカーである三菱重工業株式会社等の三菱グループとは、資本・人材関係が一切ない。眞崎大和鉛筆(三菱鉛筆株式会社の前身)の社長を輩出した近藤家、及び三菱鉛筆株式会社の現オーナー一族となっている数原家と、三菱財閥の岩崎家には、間接的な婚姻関係はあるが、それ以上は発展していない。また、本来の創業一族である眞崎家は、岩崎家との姻戚関係もない。三菱鉛筆株式会社は、1958(昭和33)年にロングセラーとなる高級鉛筆「uni(ユニ)」を発売する。この名称・ロゴは、製品デザインに関わった工業デザイナー・童画家・著述家・教育者の秋岡芳夫らによるものであり、現在では、企業全体のブランドマークとしても使われている。「uni(ユニ)」の語源は、英語の「unique(ユニーク、唯一の)」に因む。ボールペン製品では、「uni-ball(ユニボール)」の名称も使われる。三菱鉛筆株式会社は、日本の鉛筆製造元として、大手文房具メーカーの株式会社トンボ鉛筆と共に知られる大手である(国内産鉛筆のシェアは、最大手の三菱鉛筆株式会社と、株式会社トンボ鉛筆で、合わせて約9割のシェアを誇る)が、2014(平成26)年時点では、三菱鉛筆株式会社の売上の約半数をボールペン製品が占め、ボールペン製造元としても、大手文具メーカーの株式会社パイロットコーポレーションやゼブラ株式会社と肩を並べている。鉛筆は、筆記具・文房具の一種で、顔料を細長く固めた芯(鉛筆芯)を軸(鉛筆軸)で挟んで持ち易くしたものである。紙に筆記するために使われる。鉛筆の片側の末端部分を削って露出させた芯を紙に滑らせると、紙との摩擦で芯が細かい粒子になり、紙に顔料の軌跡を残すことで筆記される。顔料には木炭が使われているものもあり、これは「チャコールペンシル」と称され、画材に使われている。鉛筆は筆記・書写・描画、製図等に幅広く使用される。通常の鉛筆の筆跡は消しゴムを用いれば消すことができ、そのため、公的な書類等には用いることができない場合も多い。その筆跡は、数年経つと輪郭がぼやけ、掠れたような感じになる。これは、鉛筆の芯の主成分である炭素が顔料(着色に用いる粉末で水や油に不溶のものの総称)であり、紙の表面に付着するだけで、中まで染込まないことに由来する。特に、色の濃い鉛筆の芯ほど擦れ易い。現在では、インデリブル・インク鉛筆やコピー鉛筆と呼ばれる、消しゴムで消すことのできない水溶性色素を含む特殊な鉛筆も販売されている。反面、鉛筆の筆跡は、インクのように経年変化によって色が変化したり消えたりすることはない。また、水分によって筆跡が滲まないため、航海日誌の記述に用いられてきた。近年は、シャープペンシルの普及によって、鉛筆の筆記用としての需要は減少している。しかし、大学入試等では、マークシートの読取りミス防止のために、マークシートへの記入は鉛筆に限定されることが多く、マークシート読取機メーカーも、鉛筆で書くことを推奨している。他にも、手書きで楽譜を書く時等、1つのペン先で太さの違う線が書けると便利な時等には、敢えて鉛筆が選択されることもある。鉛筆の両端を削ることを、地方によっては貧乏削りや泥棒削りと呼ぶ。鉛筆は複数本用意するのが基本であるが、鉛筆の両端を削れば2本分として使える。これを貧乏削り等と揶揄する。貧乏削りは、有効利用できる長さが短くなり不経済な使用法でもある。鉛筆の硬度表記で、Hは「Hard」、Bは「Black」、Fは「Firm/Fine(しっかりした/細い)」を意味している。HとBの記号を最初に使ったのは、19世紀初めにイギリスの首都ロンドンに所在した鉛筆製造業者ブルックマン社である。Bより濃いもの、Hより薄いものは、当初BBやHHと表わしたり、2Bや2Hと表わした。HBは、後にHとBの中間として使われ始めた。Fは、さらにその後に、HBとHの間を表わす記号として考案された。Bは、柔らかいため、紙の目が出易く、芯が減り易く、黒の発色が強い。消しゴム、ねりけし等で消え易いため、デッサンでは描き始めに3B - 4Bを用いることが多い。また、軽い力でも濃い線を引けるため、児童の書き方鉛筆にはB - 4Bがよく用いられる。Hは硬いため紙の目が潰れ易く、芯が減りにくく、黒の発色は弱い。消えたり滲んだりしにくいため、製図には一般的に、2H以上の硬い鉛筆が用いられる。デッサンでは、主に紙の目を出したくない時等に用いられる。一般事務では、HB - 2Bが好まれる。マークシートが使われている大学入試センター試験(日本の大学の共通入学試験)では、H、F、HBの黒鉛筆の使用が指定されている。鉛筆は、明治初期の日本では「木筆」等とも呼んだが、後に「鉛筆」と呼ばれるようになった。一説に「lead pencil(鉛の筆)」からの訳語であるという。英語の「pencil」の語源は、ラテン語で「尾」を意味する「penis」に縮小辞のついた形「penicillus」(ペニキッルス)であり、「小さな尾」「画筆」等の意味がある。日本語で「鉛筆」という場合、機械式の鉛筆であるシャープペンシルは含まない。対して、英語で「pencil」という場合、「黒鉛を芯とする筆記具の総称」として、機械式の鉛筆であるシャープペンシルを含むことがある。