1520年 - ポルトガルの航海者・探検家、フェルディナンド・マゼランが、大西洋から西の海へと抜ける海峡(後にフェルディナンド・マゼランの名前をとって、マゼラン海峡と呼ばれることになる)を抜け太平洋に到達。その後、ポルトガル人であるフェルディナンド・マゼランが率いたスペインの艦隊が、1522年に史上初の世界一周を達成する。
1660年 - 現存する最も古い科学学会、イギリスの『ロンドン王立協会(ロイヤル・ソサイエティ)』が創設される。『ロンドン王立協会(ロイヤル・ソサイエティ)』は、任意団体ではあるが、イギリスの事実上の学士院(国立アカデミーとも呼ばれる、政府より金銭的支援や公認を受けており、学術的な研究活動や、学術分野における標準化を行なっている学術団体)として、イギリスにおける科学者の団体の頂点に当たる。また、科学審議会の一翼を担うことによって、イギリスの科学の運営、及び行政にも大いに影響をもっている。英語表記の「Royal」は、国王の許可を得て設立されたことを示している。元々は、会への不当な干渉を防ぐためのもので、国王が直接の資金援助を行なった、或いは、設立に関与した訳ではない。『ロンドン王立協会(ロイヤル・ソサイエティ)』は、最初期から開かれた組織で、世界中を連結し、得られた科学的知識を共有することを目指している。これは、オープンコンテント(ソースコード[コンピュータプログラミング言語で書かれた、コンピュータプログラムである文字列]を商用、非商用の目的を問わず、利用、修正、頒布することを許し、それを利用する個人、団体の努力や利益を遮ることがない、ソフトウェア開発の手法、オープンソースから類推によって作られた文章・画像・音楽等の著作物を、利用者が自由に利用・修正・再頒布することを許諾した作品[コンテンツ]の総称)の概念ともほぼ一致する。協会は秘密を排除し、会員間のコミュニケーションを促進させ、言語による他国人とのコミュニケーション不足がなくなるようにも努力している。
1811年 - ドイツの作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』が、ドイツ中東部にあるライプツィヒで初演。『皇帝』という別名は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン自身により付けられたものではない。どのような理由から『皇帝』と呼ばれるようになったか、現在複数の説がある。この曲の曲想が、あたかも皇帝を連想させるからであるという説、古今のピアノ協奏曲の中でも、まさに皇帝と呼ばれるのにふさわしい規模・内容であるからという説等である。
1821年 - 北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置するパナマがスペインから独立し、大コロンビア(現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、パナマの全域と、ガイアナ、ブラジル、ペルーの一部)に加入する。
1843年 - 太平洋中央部の洋上に位置するハワイ王国が、イギリスとフランスから公式に独立国として承認される。
1880年 - 北海道初の鉄道となる、北海道開拓使の運営による官営幌内鉄道手宮駅 - 札幌駅間(路線距離は約35.9km)が開業。先行して開業した京浜間鉄道や阪神間鉄道等が、イギリス様式で建設されたのに対し、官営幌内鉄道は、アメリカ様式で建設されている。将来、敷設されるであろう他の鉄道との接続を考慮し、本州の鉄道と同じ1,067mm軌間が採用されたが、結果的にこの判断は、後に青函トンネルを利用して、本州と北海道の鉄道を直通させることを可能とした訳である。官営幌内鉄道は、1889年に北海道炭礦鉄道に譲渡された後、「鉄道国有法(明治39年3月31日法律第17号)」によって1906年に買収、国有化される。明治になり、蝦夷地を北海道と改めて本府を札幌に定めると、海の玄関口である小樽にヒトやモノが集まるようになり、その小樽にある手宮港に、アメリカの貨物船『ジェラルド・C・トベイ号』が入港し、鉄道機材を荷揚げして、官営幌内鉄道のレール敷設が開始される。北海道内初となる鉄道が手宮駅 - 札幌駅間に開通すると、小樽港は道内各地への開拓民の上陸や物資陸揚げの港となり、昭和初期にかけて、金融機関や船舶会社、商社等が進出して、小樽は北海道経済の中心都市として発展する。第二次世界大戦後、ニシン漁の不漁や樺太(北海道の北、オホーツク海の南西部にある、現在のロシア連邦サハリン州の島)の喪失、石炭需要の減少、道内他都市の港湾施設整備等による卸商が衰退し、札幌市が北海道の中心都市として発展すると、小樽市は衰退の一途を辿るようになる。「運河論争」を機に、明治後期から昭和初期にかけての歴史的建造物を観光資源として見直し、観光都市として脚光を浴びるようになる。小樽運河は、小樽港が取扱う荷量が多くなったため、沖合いで艀を使った荷揚げから、艀が倉庫の近くまで直接行けるよう建設した水路である。第二次世界大戦後になると、港に埠頭が整備されて運河は使命を終え、運河周辺の重厚な木造石造りの倉庫群等の歴史的建造物は、数多く取残されてしまう。1966年、モータリゼーション(自動車が社会と大衆に広く普及し、生活必需品化する現象)によって深刻化していた小樽市内の交通渋滞緩和を図るため、臨港線(現在の北海道道17号小樽港線と北海道道454号小樽海岸公園線の一部区間)全路線を6車線化する都市決定計画を策定したが、この計画には、運河の埋立と倉庫群の解体が伴なっていたため、周辺の歴史的建造物を含めて、保存に向けた市民活動が起こり、1973年に「小樽運河を守る会」が設立される。その後、10年以上に及ぶ議論が続き、臨港線は運河区間を残す一部が開通する。1983年に「小樽運河百人委員会」を結成して約10万名の署名を集める等、再度保存活動が盛上がり、小樽市も北海道初の景観条例となる「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」を制定する等姿勢を変える(1992年には、発展的解消した「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」を制定している)。百人委員会は、当時の小樽市長のリコール運動を巡る急進派と慎重派の対立により翌年に解散し、その後、慎重派が1984年に「小樽再生シンポジウム実行委員会」を結成し、翌年に発展的解消した「小樽再生フォーラム」を設立する。最終的に、運河の幅の半分を埋立てた上で道路とし、残りはポケットパークの配置や、散策路を整備することで議論が決着して、1986年に完成している。1907年7月、手宮駅は旅客の取扱い休止して貨物駅となり、1909年10月には、「国有鉄道線路名称(明治42年10月12日鉄道院告示第54号)」設定により、小樽駅(初代、現在の南小樽駅) - 手宮駅間が手宮線となる。そして、1985年11月5日、手宮線廃線に伴ない、手宮駅は廃駅となり、その長い歴史を終えている。
1883年 - 東京府麹町区山下町(現:東京都千代田区内幸町)の薩摩国/大隅国薩摩藩邸跡地に、日本初の洋式社交クラブ『鹿鳴館』が開館。『鹿鳴館』は、国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建てられた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもある。計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨、設計はお雇い外国人の建築家ジョサイア・コンドルで、約1,200名を招待して落成の祝宴が行なわれる。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表わす語で、外交官・政治家の中井櫻洲が名付けたものとされる。収容人員は2,000名で、1階は食堂・談話室・書籍室、2階は舞踏室になっている。建物は後に華族会館として使用されたが、1927年になって華族会館は別の建物に移転し、1940年に取壊しとなる。
1905年 - 西ヨーロッパ北部、北東大西洋上のアイルランド島に存在するアイルランドの政治家、アーサー・グリフィスらが、アイルランドのナショナリズム(国家主義)政党、シン・フェイン党を創設する。
1906年 - 駿豆電気鉄道(現在の伊豆箱根鉄道の前身)が、沼津停車場前(後の沼津駅前) - 三島六反田間(後の三島広小路)で開業(軌道線、路線距離5.9km)。1957年に伊豆箱根鉄道と社名変更するが、1963年2月5日に軌道線は全線廃止となり、バス輸送に転換される。