9月16日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

競馬の日(日本中央競馬会発足記念日)。
1954(昭和29)年、日本国政府が資本金の全額を出資する特殊法人(公社や公団、事業団等、その事業が国家的、或いは公共的性格をもつために、特別の法律により設置される法人)、日本中央競馬会(JRA)が農林省(現在の農林水産省の前身)の監督の下で発足した。それまでは、農林省蓄産部が運営する国営競馬(国、即ち、農林省が施行体となって行なわれた競馬)であった。日本中央競馬会の主な目的には、競馬の健全な発展、畜産の振興、国や地方公共団体の財源の確保、馬文化の普及、スポーツとしての楽しみの提供等がある。主催する競馬は、馬券の売上げ、レースの質等、世界的にも高い水準を誇っている。公営ギャンブルとしての競馬の内、日本中央競馬会(JRA)が主催する競馬を中央競馬といい、地方自治体が主催する競馬を地方競馬という。なお、地方競馬においては、地方競馬全国協会(NAR)が、免許の管理等の統括的な役割を果たしている。明治時代以降、国産馬は西洋の馬と比べて質が劣っており、品種改良と競争(競馬)を通して良質の軍馬を調達しようと、国も積極的に競馬を奨励した。1906(明治39)年に開始された公認競馬(政府公認の法人が主催した競馬)には当初、馬券の発売には法的根拠がなかったが、1923(大正12)年に「競馬法(旧法、大正12年4月10日法律第47号)」によって法的根拠が与えられた。日本競馬会(日本の中央競馬を運営する団体で、現在の日本中央競馬会の前身)の発足と共に、政府が深く関与する競馬が、全国的な統一組織の下で開催されるようになり、そうした競馬は、国営競馬を経て中央競馬へと受継がれている。競馬が国営化された要因は、従来の競馬施行体である日本競馬会が「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法、昭和22年4月14日法律第54号)」に抵触すると、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)経済科学局公正取引課が判断したことにある。1948(昭和23)年6月、日本競馬会の解散が決定し、これを受けて同年7月13日に「競馬法(新法、昭和23年7月13日法律第158号)」が公布され、国営競馬がスタートした。その後、国が興業的色彩の濃い競馬を主催することによる異論や批判が出始め、速やかに民間団体に運営を引継ぐべきとの声が高まった。これを受けて政府は「日本中央競馬会法(昭和29年7月1日法律第205号)」を制定し、国営競馬を日本中央競馬会に引継いだ。一方、第二次世界大戦戦後、かつての地方競馬規則に基づく地方競馬や鍛錬馬競走を継承する形で、地方公共団体を主催者とする地方競馬が行なわれるようになった。イギリスを発祥とする近代競馬は、多くの国々で開催されており、その多くは、勝馬投票券の販売とセットの興業として行なわれている。競馬は、主に競馬場と呼ばれる専用の競技場で開催される。1つ1つの競い合いを「競走 (race)」と呼び、1日の競馬開催で幾つかの競走が行なわれる。競走の種類は主に、平坦なコースを走る平地競走、障害物の飛越を伴なう障害競走、繋駕車と呼ばれる車を曳いて走る繋駕速歩競走の3つからなり、他に、繋駕車を曳かない速歩競走や、そりを曳くばんえい競走等がある。競走では一般には、騎手が馬に騎乗して一定の距離を走り、正規に最も早く決勝線に到達した馬を勝者とする。決勝線への到達は、概ね馬の鼻の先が決勝線を通過した時をもって判定されるが、ばんえい競走に限っては、馬が引っ張るソリの最後部が決勝線を通過した時をもって判定される。競馬の世界は優勝劣敗が大原則であり、強い馬は強い馬同士、弱い馬は弱い馬同士での競走が基本である。しかし、競走の出走メンバーのみを変更するには限界がある。そこで考え出された方法として、強い馬には重い負担重量を、弱い馬には軽い負担重量となるように、負担重量を変更することで、ある程度幅のある競走を組むことができる。負担重量の決定方法としては、馬齢戦、別定戦、定量戦、ハンデキャップ競走等もある。特別競走の中でも、特に賞金が高額で歴史と伝統・競走内容等を考慮し、重要な意義を持つ競走として、重賞が行なわれる。さらに、各重賞競走の役割と重要性を広く認識してもらい、生産界の指標としての重賞競走の位置付けを明確にするため、グループ制(日本を含む一部の国ではグレード制)によってG1、G2、G3に分類される。G1は、競走体系上最も重要な意義をもつ根幹競走、G2はG1に次ぐ主要な競走で、G1の勝ち馬も比較的容易に出走できる内容をもった競走である。G3についてはG1、G2以外の競走である。G1競走(及び、それに類する格付けの競走)の中でも、3歳馬に対して行なわれる伝統のある競走をクラシックと呼ぶ。現在、世界各地でクラシックと呼ばれる競走が行なわれているが、多くの国が最初に始められたイギリスのクラシックレースを模範としている。競馬は、単なる賭博としてだけではなく、音楽や文学、絵画や彫刻等の創作活動の主題として取上げられたり、社会制度にも入り込んで、一連の馬事文化を形成してきた。特に、イギリスでは、活躍した名馬の肖像画も多く残されており、その姿を現代に伝えている。日本では、歌人・劇作家で、「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王の1人」「昭和の啄木」等の異名をとり、マルチに活動して、膨大な量の文芸作品を発表した、寺山修司(競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になる程であった)らによる、競馬を主題とした文芸作品もある一方、競馬漫画や競馬ゲームといった、サブカルチャー(かつては、大学で学問、研究対象にならない、新聞、雑誌等で論評の対象にならなかった、社会の支配的な文化の中で異なった行動をし、独自の信条を持つ人々の、独特な文化作品で、日本では、特撮、アニメ、アイドル等といった、趣味を指す場合において用法が見られる)も多く発表されている。娯楽が多様化するに従って、競馬に対する大衆の関心は薄まっていったが、時折現れるアイドルホース(大衆的な人気を得る馬)によって、大衆的な関心が再燃することがある。日本での代表的な例として、20世紀のハイセイコーやオグリキャップ、トウカイテイオー、ナリタブライアン等、21世紀初頭のディープインパクト、オルフェーヴル、キタサンブラック等がいる。1970年代の日本で、社会現象と呼ばれる程の人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となったハイセイコーは、1972(昭和47)年7月、大井競馬場でデビューした後、翌1973(昭和48)年1月には中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた。移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つと、その人気は競馬の枠を超えて、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取扱われるようになり、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった。5月27日に東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで、不敗神話は崩壊したが、人気は衰えることはなく、むしろ高まり、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった。ハイセイコーが巻起こしたブームは、日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ、健全な娯楽として認知されるきっかけの1つになった、と評価されている。1984(昭和59)年には、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され、JRA顕彰馬に選出された。JRA顕彰馬とは、中央競馬の発展に多大な貢献のあった競走馬の功績を讃え、後世まで顕彰していくために、日本中央競馬会(JRA)30周年記念事業(1984[昭和59]年)の一環として制度を発足し、1984(昭和59)年に制定されたものである。