9月15日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

シルバーシート記念日。
1973(昭和48)年9月15日(当時の敬老の日)、日本国有鉄道(国鉄、現在のJRグループ)により、「シルバーシート(和製英語[日本語圏で作られた、英語に似た語彙])」の名称で、中央線快速(現在の東日本旅客鉄道[JR東日本]管内の中央本線の内、東京都千代田区の東京駅から東京都八王子市の高尾駅までの快速電車の運転系統の案内上、及び営業上の呼称)を始めとして、東京と大阪の国電区間(大都市周辺で運転された近距離専用電車線区間)に、優先席(鉄道車両やバス等に設置されている、高齢者・障害者・けが人・体調不良者・妊婦・乳幼児連れ[ベビーカー含む]等を、椅子への着席を優先・若しくは促す座席)が順次導入され始めた。「シルバーシート」の名を付与したのは、日本国有鉄道(国鉄)で設定した当初、高齢者を対象にし、他の座席と区別するため、本社旅客局営業課長であった須田寛(東海旅客鉄道[JR東海]初代代表取締役社長で、現在は、東海旅客鉄道[JR東海]顧問)が、座席の色を変えること提案したが、当時の日本国有鉄道(国鉄)は赤字で、大量の座席シートを替える為の資金の捻出が困難な状況であったため、在庫を探しての決定で、新幹線0系電車の座席に使うシルバーグレー色の予備布地を利用して、シートを設定したことから、と言われる。日本国有鉄道(国鉄)に倣って、大手私鉄等、他の事業者でも導入が始まった。私鉄では、座席表地の色については必ずしも踏襲していないが、識別マークはシルバーシートを引継いだ。呼称は「シルバーシート」「(お年寄りや体の不自由な方の)優先席」とまちまちであった。当初は、編成の先頭・後尾車両の端部と反対側に設定されたが、やがて、各車両の一端を優先席に設定するようになり、拡大が行なわれた。近畿日本鉄道(近鉄)や京成電鉄、北総鉄道等では、2010年代後半頃より、1両に設置している優先席を拡大している事例もある。しかし、1990年代後半からは、利用対象を高齢者や身体障害者以外にも、怪我人・妊婦・乳幼児連れ等、一時的に何らかの障害を持つ人に拡大するため、高齢者専用を思わせる「シルバーシート」という名称から、各鉄道・バス事業者とも、「優先席」や「優先座席」等への変更が進んだ。また、関東の大手私鉄等を中心に、優先席付近のつり革をオレンジ色にする等、つり革や床の色を変えている事業者もある。阪急東宝グループ(現在の阪急阪神東宝グループ)の阪急電鉄、及び、能勢電鉄や神戸電鉄では、1999(平成11)年4月1日より優先座席を廃止し、全車両の全座席が優先座席と同様に扱われるよう、乗客のモラル向上を呼掛けた(実質的には、区分のみを廃し、全座席を優先座席化するものであった)。これは、優先座席を利用すべき対象者(高齢者・身体障害者・怪我人・妊婦・乳幼児連れ等)が、事業者により設定された場所に追いやられる形は好ましくなく、本当に必要な人が、間近の席でも利用できるように、との性善説に沿った思考への転換によるものであった。2007(平成19)年、阪急電鉄は、株主総会で「座席を譲ってもらえない」との意見が出たことをきっかけに再検討し、同2007(平成19)年10月29日から、再び優先座席の区分を用いる方針へと転換した。これは、能勢電鉄や神戸電鉄、及び、阪急電鉄の千里線・京都本線と相互直通運転を行なっている大阪市営地下鉄(現在は大阪市高速電気軌道[Osaka Metro])堺筋線も追従した。横浜市交通局(横浜市営地下鉄)も、阪急電鉄に職員を派遣・研修させる等して、阪急電鉄等と同様の、全座席の優先座席化を2003(平成15)年12月1日から実施したが、2012(平成24)年には、「最優先席」という位の「ゆずりあいシート」を設置している。
関ケ原合戦の日。
岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原に事務局を置く一般社団法人、関ケ原観光協会が制定。安土桃山時代に東軍と西軍に分かれて行なわれた大規模な合戦で、天下分け目の戦いとして、その後の日本の行く末を決定した関ケ原の戦い。記念日を通して、関ケ原合戦が行なわれた日を広く世間に知ってもらい、この歴史的な転換日を、関ケ原の地域資源として、関ケ原の地の活性化に繋げることが目的。日付は、関ケ原合戦が始まった1600(慶長5)年9月15日(旧暦)から。関ケ原合戦(関ヶ原の戦い)は、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行なわれた野戦で、関ヶ原における決戦を中心に、日本の全国各地で戦闘が行なわれた。主戦場となった関ヶ原古戦場跡は、国指定の史跡となっている。豊臣秀吉の死後に発生した、豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、徳川家康を総大将とし、福島正則や黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし、宇喜多秀家や石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰広げた。この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになった。豊臣政権の大老上杉景勝と、徳川家康との関係が悪化し、徳川家康は会津征伐に踏切る。前田玄以、増田長盛、長束正家の豊臣政権三奉行は、徳川家康の罪状13ヶ条を書連ねた弾劾状を諸大名に送り、東軍と西軍との対立構造が成立する。決起した西軍は、徳川家康家臣、鳥居元忠が守る伏見城を包囲し、城を陥落させる(伏見城の戦い)。その後、西軍は伊勢国(現在の三重県の北中部と、愛知県、及び岐阜県の一部)に侵攻するが、東軍の西上の動きを知って美濃国(現在の岐阜県南部)方面へと転進し、東西両軍は関ヶ原で対決することになる。通説では、当初はやや西軍優勢で進み、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明ら、数倍の敵を一手に引受けたとされているが、小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって、西軍は総崩れとなったとされている。しかし、東西どちらの陣営に付くか迷った小早川秀秋の陣に、徳川家康が鉄砲を打込んだため、意を決した小早川秀秋が西軍に襲い掛かった、とする経緯は、江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、合戦後すぐに作成された連署書状には、小早川秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている。関ケ原町には、1964(昭和39)年に開館した民営の博物館、関ヶ原ウォーランドがある。敷地は約30,000平方mで、屋外には関ヶ原の戦いを、200体以上の戦国武将のコンクリート像で再現している。これは、東軍、西軍の陣地を史実に基づいて再現したものであり、旗や陣幕も、当時のものを再現したものという。屋内施設として武具甲冑資料館があり、当時使用されたという甲冑、火縄銃等も展示している。また、岐阜県の直営施設で、関ヶ原の戦いに関する記念館(体験施設)、岐阜関ケ原古戦場記念館も、2020(令和2)年10月21日(関ヶ原の戦いが行なわれた慶長5年9月15日は、西暦では、1600年10月21日に該当する)に開館し、翌10月22日より一般公開された。岐阜関ケ原古戦場記念館に展示してある関ヶ原合戦図屏風、武具、出土品、書簡等は元々、1982(昭和57)年に開館した関ケ原町歴史民俗資料館(岐阜関ケ原古戦場記念館の開館に合わせ、関ケ原町歴史民俗学習館に改称)に展示されていたものを移しており、岐阜関ケ原古戦場記念館と関ケ原町歴史民俗学習館は隣接し、渡り廊下で結ばれている。関ケ原の戦いでの徳川家康最後の陣地の跡地にある。