9月13日 できごと その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

1932年 - 広島県安芸郡音戸町(瀬戸内海にある倉橋島)と、広島県呉市の鍋桟橋(いずれも、現在は広島県呉市の域内)を結ぶ汽船が沈没し、29名の死者・行方不明者を出す。定員23名の小型船に、約6倍近くの137名が乗ったことによる事故、とされる。
1935年 - 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新潟県新発田市)で大火。約8時間に亘る火災により、全焼戸数780戸、半焼戸数14戸等の被害となる。
1942年 - 第二次世界大戦・スターリングラード攻防戦: ドイツ軍が、総攻撃とスターリングラード(現在のロシア西南部に所在するヴォルゴグラード)市街地への突入を開始。スターリングラードは元来、ドイツ軍のブラウ作戦(ドイツ軍による夏季攻勢計画で、ソビエト連邦の石油補給路を断つことにより経済を麻痺させ、ソビエト連邦の継戦能力を奪おうとするものであった)における副次的目標の1つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者、ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから、熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展する。緒戦はドイツ軍側の優位に進み、市街地の約90%以上を占領したものの、最終的にはソビエト連邦軍側の反攻により、ドイツ軍側は敗退して、独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における、決定的な転換点の1つとなる。
1945年 - 第二次世界大戦・ニューギニアの戦い: ニューギニア島の日本軍第18軍司令官安達二十三陸軍中将が、ニューギニア島東部にあるウオム岬飛行場で、オーストラリア軍への降伏文書に署名する。
1945年 - 日本軍第29軍司令官石黒貞蔵陸軍中将が、マレー半島南部にあるクアラルンプールで、英印軍第34軍団に対する降伏文書に署名する。
1945年 - 「大本営復員並廃止要領(昭和20年9月13日軍令第3号)」により、大本営(日本陸海軍の最高統帥機関[軍隊を指揮監督する最高の権限を持つ機関])が廃止となる。
1948年 - 昭和電工事件: 東京地方検察庁(東京地検)が、大蔵主計局長であった福田赳夫を逮捕する。結果として無罪にはなったものの、福田赳夫はこれを機に、大蔵省(現在の財務省と金融庁の前身)を退官している。 
1950年 - キジア台風(昭和25年台風第29号)が鹿児島県大隅半島に上陸、九州を縦断して日本海を北上し、西日本を中心に被害が生じる。宮崎県の南西部に位置する都城市付近を通過した時には、中心気圧960ミリバール(現在の単位はヘクトパスカル)、風速は秒速30m以上の勢力で、その後は九州地方を縦断する。西日本一帯は、9月上旬にジェーン台風(昭和25年台風第28号)により既に大きな被害を受けており、加えて、このキジア台風(昭和25年台風第29号)が通過したため、被害がさらに大きくなる。特に、山口、愛媛、大分の各県では、期間総雨量約350mmから約500mmの大雨に見舞われ、各地で河川の氾濫や土砂災害が多数発生し、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋が、江戸時代の17世紀以降では初めて流失する。また、西日本の沿岸部では、高潮により広範囲が浸水したが、これらの地域は、1946年12月の南海地震(昭和南海地震)によって地盤沈下の傾向が著しかったことから、高潮の被害がさらに大きくなっている。この台風で、西日本を中心に死者・行方不明者43名、浸水・損壊家屋120,000棟以上の被害が生じる。
1956年 - アメリカのコンピュータ関連企業、IBM社が『IBM 305 RAMAC』の一部として世界初のハードディスクドライブ(磁性体を塗布した円盤を高速回転し、磁気ヘッドを移動することで、情報を記録し読み出す補助記憶装置の一種)『IBM 350』を発表。IBM社によって開拓されたディスク記憶装置の発明は、コンピュータ革命の重要な要素となる。『IBM 350』の設計は、ビジネスにおけるリアルタイム計算の必要性を意図しており、50枚の24インチ(直径約610mm)の磁気ディスクを備え、ディスク表面には、それぞれ100のトラック(コンピュータの補助記憶装置の中の記録単位)がある。幾つかの改善されたモデルが1950年代に追加された後、1969年には公式に販売停止となる。 
1959年 - ハインリヒ・リュプケが西ドイツ大統領(ドイツ連邦共和国連邦大統領)に就任。
1968年 - 東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置するアルバニアが、ワルシャワ条約機構(ソビエト連邦を盟主とした東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟)を脱退する。1946年に王政が廃止され、共産主義国家アルバニア人民共和国が成立して、暫くはソビエト連邦の強い影響下で国家運営が為されたが、1961年の中ソ対立を契機に、対ソビエト連邦批判を展開。ソビエト連邦と袂を分かつ一方で、中華人民共和国に接近し、経済援助を受ける。また、1967年には、中国の文化大革命に影響されて「無神国家」を宣言し、一切の宗教活動を禁止する等、政治は混迷を極め、1968年にはワルシャワ条約機構を脱退し、実質的な鎖国政策を実行する。隣国ユーゴスラビアとの対立も続き、国内は混乱状態に陥る。1976年、中華人民共和国で文化大革命(中華人民共和国を建国した毛沢東自身が主導し、直接紅衛兵[全国的な青年学生運動]を動員して、既成の一切の価値を変革すると唱し、大衆を動員して行なわれた政治闘争)が収束し、改革開放路線に転換すると、一転して中華人民共和国批判を開始し、世界的孤立は一層進み、同1976年、国号をアルバニア社会主義人民共和国へ改称する。最後の頼みの綱であった中華人民共和国からの援助も失い、1980年代には、「欧州一の最貧国」とまで揶揄される程、経済は停滞する。そのような中、1985年に指導者であるエンヴェル・ホッジャが死去し、全国規模の反政府デモが頻発し、時の権力者ラミズ・アリアにより、1990年から徐々に、開放路線に政策を転換し始める。1992年の総選挙では、非共産主義政権が誕生し、共産国家アルバニアは崩壊している。ワルシャワ条約機構脱退後、実質的にソビエト連邦を仮想敵国とした極端な軍事政策を採った上、隣国ユーゴスラビアとも、最高指導者ヨシップ・ブロズ・チトー大統領を「修正主義者」であると規定し、激しく対立する。国民殆どに行渡る量の銃器を保有する国民皆兵政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。1997年3月には、経済破綻を契機とした全国的な大規模暴動、1997年アルバニア暴動が発生し、政権が転覆し、無秩序状態となる。暴動収束のための妥協案として、同年中に総選挙が実施され、一応の沈静化を見せたものの、未だ尾を引いている、とも言われている。  
1970年 - 日本万国博覧会(大阪万博)が閉幕。「日本万国博覧会」は、アジア初、かつ日本で最初の国際博覧会であり、当時史上最大の規模を誇っている。略称は、開催地の名から「大阪万博」、一般的な英語表記としては「EXPO'70」が用いられ、また、日本国内において、単に「万博」、或いは「万国博」とも略される。第二次世界大戦後、高度経済成長を成遂げ、アメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとして開催されている。博覧会の名誉総裁は、当時の皇太子明仁親王(後の第125代天皇、天皇明仁、現在の上皇明仁)で、閉会式には、皇太子明仁親王と皇太子妃美智子(現在の上皇后美智子)の臨場の下、特別招待客や一般招待客約6,000名が出席して、お祭り広場(催し物会場として、開閉会式を始め、各国のナショナルデーやスペシャルデー等、国際性豊かな多彩な催し物が連日繰広げられた)で閉会式が行なわれ、参加各国の入場行進、日本万国博覧会協会会長石坂泰三(日本経済の有力企業が多く加盟する経済団体連合会[経団連]会長を4期、12年務め、経済団体連合会[経団連]会長の異名 「財界総理」の嚆矢[ものごとの始まり]とされる実業家・財界人)、皇太子明仁親王らがことばを述べる。万国博覧会(万博)旗が返還され、参加国・国際機関旗が一斉に降ろされ、コンパニオンにメダルが贈られる。