9月3日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

ホームラン記念日。
1977(昭和52)年9月3日、東京都文京区後楽にある後楽園球場(1987[昭和62]年に閉場)で、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の王貞治が通算756号ホームランを放ち、それまでメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)のハンク・アーロンが持っていた世界最高記録を更新した。2日後の9月5日に、政府は王貞治に初の国民栄誉賞(「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃える」賞)を贈り、その栄誉を讃えた。因みに、国民栄誉賞は、当時の内閣総理大臣であった福田赳夫が、本塁打世界記録を達成したプロ野球選手、王貞治を称えるために創設したのが始まりである。背景には、内閣総理大臣や政権による表彰としては、1966(昭和41)年に、当時の内閣総理大臣、佐藤栄作が創設した「内閣総理大臣顕彰」があったが、「学術および文化の振興に貢献したもの」等、6つの表彰対象を定めていた反面、プロ野球選手を顕彰した前例がなかったという事情があった。また、王貞治は、叙勲(栄典として、国家、又は公共に対して功労のある者を勲等に叙して勲章を授けること)には若過ぎた(叙勲被推薦者たるには70歳を超えていることが必要で、王貞治は37歳であった)ということもあり、そのため、より柔軟な表彰規定を持つ顕彰として創設されたのが、この国民栄誉賞である。表彰の対象は、「内閣総理大臣が本表彰の目的に照らして表彰することを適当と認めるもの」であり、かなり幅広い解釈が可能である。最初の授賞者である王貞治が中華民国籍である(2022[令和4]年現在も帰化していない)ことからも明らかなように、日本国籍の所持は要件にない。また、公開されている授与基準の他に、「これまで功績を積み重ねてきた上に、さらに歴史を塗り替える、突き抜けるような功績をあげた」という「暗黙の了解」を満たしていることも必要、と言われる。王貞治は、「一本足打法」と呼ばれる独特の打法で通算本塁打数、当時のシーズン本塁打数の日本記録を打立てる等、ON砲として並び称された長嶋茂雄と共に、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の「V9」(1965[昭和40]年から1973[昭和48]年まで、9年間連続してプロ野球日本シリーズを制覇したこと)時代の顔として、国民的人気を誇った。王貞治の記録したシーズン公式戦通算本塁打868本は、日本プロ野球記録であり、ハンク・アーロンが保持していたメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)通算本塁打記録の755本塁打を抜いたことで知られる他、数々の日本プロ野球記録を保持している。王貞治の存在は、アメリカでも早くから評価されていた。1970(昭和45)年に行なわれた日米野球(サンフランシスコ・ジャイアンツ戦)では、1試合2本塁打等と活躍、親善試合でありながらメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)の投手が敬遠するという光景も見られた。1976(昭和51)年には、アメリカの代表的スポーツ雑誌である「スポーツ・イラストレイテッド」に、日本プロ野球選手として初めての表紙を飾った。その一方で、日本では「世界の(本塁打)王」と呼ばれたが、日本以外の世界ではあくまで「日本の本塁打王」として知られる。王貞治が用いたことで有名な「一本足打法」は、片足だけで立つことからこの名が付いた。片足で立ったままの姿勢を長く保つ打法は、一本足で立つ鳥のフラミンゴに例えて、「フラミンゴ打法」とも呼ばれる。足を上げることによって、ボールを手元まで引付けたり、タイミングを取易くしたりすることを目的とした打法である。メリットがある一方、下半身への負担が大きく、下半身の弱い選手は軸もぶれ易いため習得が難しい。上半身に頼らず、強靭な下半身とバランス感覚が要求される。王貞治に「一本足打法」を指導した荒川博(読売ジャイアンツ[読売巨人軍]の一軍打撃コーチとして、荒川道場と呼ばれる厳しい指導で選手のプライベートも徹底的に管理し、読売ジャイアンツ[読売巨人軍]の第3次黄金時代を支えた)は、多くの選手に「一本足打法」を伝授しようとしたが、会得できた選手は殆どいないという。川上哲治(現役時代には、その卓越した打撃技術から「打撃の神様」の異名を取り、日本プロ野球史上初の2,000安打を達成し、監督としても、王貞治や長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツ[読売巨人軍]の黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」[9年連続セ・リーグ優勝、日本シリーズ優勝]を達成する等、多大なる功績を残している)は、「一本足打法」には否定的であり、二本足に戻すよう、王貞治に命じたことが何度かある。しかし、王貞治本人の意向によって、「一本足打法」は現役最後まで貫かれた。川上哲治は、ボールを捉えるタイミングを会得すれば元のフォームに戻す、と思っていたのに、王貞治が引退まで「一本足打法」で貫き通したことには、呆れさえ感じたと述べている。即ち、「一本足打法」が優れているのではなく、王貞治の打者としての資質が優れているのであり、この打法は、それを引出すためのものに過ぎない、という考え方になる。メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)では、17歳でメジャーデビューし、22年間ニューヨーク・ジャイアンツ(メジャーリーグベースボール[MLB、大リーグ]屈指の名門球団であり、読売ジャイアンツ[読売巨人軍]はこのチームから名前とユニフォームを採用しているが、1958[昭和33]年にアメリカ合衆国西部、カリフォルニア州サンフランシスコに移転し、現在のサンフランシスコ・ジャイアンツとなっている)一筋で活躍、通算511本塁打を放った右翼手、メル・オット(メルビン・トーマス・オット)が、日本で言う「一本足打法」で6回の本塁打王(6回は、歴代で第4位タイの記録)に輝いている。メル・オットの背番号「4」は1949(昭和24)年、ニューヨーク・ジャイアンツの永久欠番に指定されたが、メル・オット本人は、1958(昭和33)年に、アメリカ合衆国南部、ルイジアナ州ニューオーリンズで交通事故により、49歳で没している。台湾の高校時代、世界大会で優勝した大豊泰昭は、王貞治に憧れて来日し、中日ドラゴンズに入団する。王貞治の持つ日本プロ野球シーズン最多本塁打記録55本(当時)を目標として、背番号を55とした。1992(平成4)年に「一本足打法」を始め、1994(平成6)年には、38本塁打、107打点で、本塁打王と打点王の二冠を獲得した。1996(平成8)年にも38本塁打を放つ活躍をみせるが、翌1997(平成9)年、中日ドラゴンズの本拠地が、ナゴヤ球場(両翼 - 91.4m、中堅 - 118.9m、外野フェンスの高さ - 2.13m)からナゴヤドーム(現在の「バンテリンドーム ナゴヤ」、両翼 - 100m、中堅 - 122m、外野フェンスの高さ - 4.8m)に移ったことで、極度の不振に終わる。チームの方針が、広くて外野フェンスが高いナゴヤドームに対応した守備、機動力重視へ転換したことから、大豊泰昭は、交換トレードで阪神タイガースへ移籍した。王貞治へのリスペクトから、「一本足打法」に拘りを見せていたが、阪神タイガース時代には、すり足打法に変更したこともある。すり足打法では、打率.341の好成績を記録するも、その翌年は「一本足打法」に再転向した。   
クレイ沖縄のクワンソウの日。
沖縄県那覇市三原に所在する、健康食品の製造・企画・開発・販売を手掛ける企業、株式会社クレイ沖縄が制定。株式会社クレイ沖縄では、沖縄県物産公社等と連携して、沖縄の伝統野菜の「クワンソウ」から抽出した成分を使った睡眠改善サプリで機能性表示食品、「グッスリン2-V」を発売している。葉や茎等も料理に使える「クワンソウ」を、沖縄の食文化の1つとして、より多くの人に知ってもらうことが目的。日付は、日本睡眠学会が「ぐっ(9)すり(three = 3)」と読む語呂合わせで、9月3日を「秋の睡眠の日」としていることや、「ク(9)ワンソ(3)ウ」と読む語呂合わせ等から、9月3日を記念日としたもの。1985(昭和60)年1月に創業し、2005(平成17)年8月に設立された株式会社クレイ沖縄は、ミッションとして「健康で平和な世界共生を創造。」、ビジョンとして「沖縄資源に含まれる免疫力で世界中の人々を健康に。」を掲げる。クワンソウは、沖縄で琉球王朝時代から食されてきたユリ科ワスレグサ属の多年生植物である。昔から「不眠症に効く野菜」として知られ、食用の他、薬草としてもよく利用されてきた。今も、庭先や畑で栽培されている。秋にオレンジ色の花を咲かせることから、「アキノワスレグサ」という和名が付いている。また、沖縄では昔から「ニーブイ草」とも呼んでいる。「ニーブイ」とは「眠り」を意味する沖縄の方言。株式会社クレイ沖縄は産学協同研究の下、「眠れない時はクワンソウ」という沖縄に伝わる生活の知恵を科学的に追究。クワンソウの鎮静・睡眠作用に、特殊なアミノ成分「オキシピナタニン」が関与していることを解明した。さらに、クワンソウの生葉から濃縮液を精製し、有用成分である「オキシピナタニン」を大量抽出することに成功した。