8月19日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

世界人道デー(World Humanitarian Day)。
2008(平成20)年12月の国際連合総会で制定された国際デーの1つ。2003(平成15)年8月19日、中東・西アジアに位置するイラクの首都バグダッドで、230㎏の爆薬を積んだミキサー車の自爆攻撃により、国際連合事務所が爆破され、数時間後に犯行声明が出された。イラク復興の責任者、セルジオ・デメロ事務総長特別代表を含む24名が死亡、108名が負傷し、国際連合を標的としたテロでは過去最悪のものとなった。この事件を境に、それまでアメリカ軍に限定されていたテロの標的が、他の国の軍隊、アメリカ軍に協力する機関や人々、更には、イラクの一般の人々にまで拡大・無差別化され、ソフトターゲット(攻撃し易い標的)が狙われるようになる。現在、紛争や自然災害等により、支援を必要とする人々は、世界中で約1億2,500万名に達している。この国際デーは、世界各地で起きている紛争や自然災害等の人道問題に焦点を当て、支援の輪を広げると共に、困難な現場で人道支援に携わる人々に思いを寄せるための日である。毎年、この日を中心に世界的なキャンペーンが展開され、各地で関連イベントが開催される。日本では、兵庫県神戸市で記念イベントが開催され、神戸市等の協力により、明石海峡大橋・神戸ポートタワー・錨山(兵庫県神戸市中央区西部にある山で錨形の電飾が南麓を飾る)・モザイク(兵庫県神戸市中央区東川崎町に所在し、神戸港に面する複合商業施設、「umie MOSAIC」の南隣にある入場無料のミニ遊園地)大観覧車等が、国際連合と世界人道デーのテーマカラーである青色にライトアップされる。
世界写真の日(World Photographic Day/World Photo Day)。
2009(平成21)年にフランス政府が制定したとの情報や、非公式に制定された記念日との情報がある。1839(天保10)年8月19日、フランスの国立アカデミー(政府より金銭的支援や公認を受けており、学術的な研究活動や、学術分野における標準化を行なっている学術団体)、フランス学士院を構成する団体の1つ、科学アカデミーの定例会において、これもフランス学士院を構成する団体の1つである芸術アカデミーとの共催により、ダゲレオタイプに関する公開講演が行なわれ、ここでダゲレオタイプの全てが公開された。講演者は、フランスの数学者、物理学者、天文学者で、政治家としても業績を残したフランソワ・アラゴである。フランスの画家で写真家のルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって発明された、世界初の実用的写真撮影法であり、湿板写真技法が確立するまでの間、最も普及した写真技法、ダゲレオタイプは、銀メッキをした銅板等を感光材料として使うため、日本語では銀板写真とも呼ばれる。露光時間を約10分から約20分から最終的には約1分から約2分にまで抑えることに成功し、肖像写真の撮影も容易なものとなった。なお、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが、ダゲレオタイプによるカメラ(写真機)を発明したとされる1839(天保10)年3月19日は、「カメラ発明記念日」となっている他、写真関連団体で、1950(昭和25)年創立の日本写真協会が開いた写真の日制定委員会が1951(昭和26)年に制定し、日本写真協会が主催している「写真の日」は、日本初の写真撮影が行なわれたと言われた、6月1日になっている。光学技術を用いた興行を行なっていたルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは、1824(文政7)年前後から、独自に写真の研究を始めていた。一方、写真技術の先駆者であり、世界初の写真画像を作ることに成功したフランスの元陸軍軍人で、体調不良により退官した後、科学的研究に没頭するようになったジョセフ・ニセフォール・ニエプスが、カメラ・オブスクラ(被写体の各点で乱反射した光線の内、空間にあるピンホールの1点を通る光線のみを選び出し、平面に投射することで射影された像を得る装置)の画像を固定するヘリオグラフィを、1824(文政7)年に開発している。これは、ピューター板(鉛とすずの合金で、後には銀メッキ銅板も使用されている)の上に、アスファルトを塗ったものを感光剤として使う方法である。このヘリオグラフィこそが、世界最初の写真技法と言えるが、露光時間が日中の屋外でも約8時間も掛かる等、とても実用的とは言えないものであった。ジョセフ・ニセフォール・ニエプスの成功を知ったルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは、1829年12月14日にニエプスと共同研究を行う契約を結んだ。これによって、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは、ジョセフ・ニセフォール・ニエプスの発明の詳細を知ることができた。ヘリオグラフィとダゲレオタイプは、その原理の面から見れば、殆ど別物と言っていい写真技法である。しかし、銀板やヨウ素を使うこと、現像というプロセスのアイディア等、ヘリオグラフィからダゲレオタイプに引継がれた要素も多い。始めの契約では、完成した写真技法には、ジョセフ・ニセフォール・ニエプス、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール両名の名前を残すことになっていた。共同研究の途上でジョセフ・ニセフォール・ニエプスは死亡し、共同研究のパートナーは、その息子イジドール・ニエプスに引継がれた。しかし、その後の契約変更で、ジョセフ・ニセフォール・ニエプスの名は残されないこととなった。ダゲレオタイプを完成させたルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは、自分の発明に箔を付けるため、光学や磁気に関する実験や発見で名声を獲得していた、物理学者のフランソワ・アラゴ等、当時高名であった科学者や芸術家に、ダゲレオタイプを見せている。フランソワ・アラゴは、この発明を世界に公開するというアイデアを思い付き、そのために、特許をフランス政府が買取り、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールと、イジドール・ニエプスに対し、年金を支払うように働き掛けた。そして、この提案は実現し、ダゲレオタイプは誰もが使えるものとなった。ダゲレオタイプが発表された当時、既にカメラ・オブスクラの画像を固定する技術は幾つか存在した。しかし、ダゲレオタイプは圧倒的に高精細であり、また、フランス政府が特許を買上げたこともあって、瞬く間にヨーロッパとアメリカ大陸に普及した。後に、銀板をヨウ素蒸気にさらす際、臭素を加えるゴッダード法の開発等により、感度を向上させる等の改良が加えられた。アメリカ大陸では、家族の肖像写真をダゲレオタイプで撮影したものが多く残っている。後に、操作が簡便で経費も安く、仕上がりも良好な感光材料の一種、写真湿板が発明され、ヨーロッパ大陸では、ダゲレオタイプが駆逐された後においても、アメリカでは暫くの間、ダゲレオタイプによる肖像写真が好まれており、残ることとなった。20世紀以降、カラーフィルム(多色フィルム)やオートフォーカス(自動合焦、但し必ず自動で合焦する訳ではない)、オートエキスポーズ(自動露出)が広まった。また、画像の電子記録も広まっている。現在では、デジタルカメラの液晶画面によるインスタントプレビューが可能であり、高画質機種の解像度は高品質の35mmフィルムのそれを越えている、とも言われるようになった。そして、コンパクトデジタルカメラの価格は大幅に低下し、写真を撮ることはより容易になった。
義秀忌。
作家、中山義秀の1969(昭和44)年の忌日。中山義秀は中学英語教師の傍ら著作業を始め、1938(昭和13)年に短編小説『厚物咲』で第7回芥川龍之介賞(純文学の新人に与えられる文学賞で、通称は芥川賞)を受賞する。翌年、短編小説『碑』を発表し、文壇での評価を高める。第二次世界大戦後は時代小説を多数発表しており、1993(平成5)年には、ふるさと事業の一環として、福島県西白河郡大信村(中山義秀の出身地は、福島県西白河郡大屋村で、大信村の西部に当たり、1955[昭和30]年に福島県西白河郡信夫村と合併し、大信村が発足して、大屋村は廃止となる)が中山義秀記念文学館を創設した。最後の文士と称された、郷土が生んだ偉大な作家を記念し、その文学的業績を、その人物やそれを育んだ環境と併せて理解してもらい、次代の中山義秀を育てる基盤として建設された中山義秀記念文学館は、創設当時は全国的にも珍しい村立の文学館であったが、2005(平成17)年、福島県西白河郡大信村が、福島県白河市、及び、福島県西白河郡の表郷村と東村による合体合併で、新市制の福島県白河市が発足したことから、現在は、図書館も併設する白河市立の施設となっている。また、優れた歴史小説や時代小説を対象とした、「中山義秀文学賞」も創設されている。