8月19日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

俳句の日(続き)。 
俳諧では、最初に詠まれる発句は、後に続ける脇句や平句の動機となる必要がある。そのため発句には、脇句に依存しない完結性が求められた。そこで編み出されたテクニックが「切れ」である。上手く切れた発句は「切れがある」と評価され、重視された。例えば、有名な松尾芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水の音」では、「古池や」の後で一呼吸、句の流れが切れている。これは、切れ字の「や」による効果である。読者はその一瞬の休符の合間に、作者を取巻く環境や作者の思想・感情・情念・背景等を勝手に想像してしまう仕掛けになっている。このテクニックが「切れ」と呼ばれ、十七文字という限定された語数で、言葉に形と質感を与える効果を持つ。さらに、季語と相まって句に余韻をかもし出す。このような「切れ」は、現代の俳句でも重要なテクニックの1つである。川柳も、俳句と同じく俳諧に起源を持つ五・七・五の定形詩であるが、俳諧連歌の冒頭の発句が独立した俳句と違い、川柳は、付け句(平句)を前句から独立的に鑑賞するようになったもので、発句の性格を継承しておらず、そこから俳句と対照的な特徴を有する。
俳句記念日。
俳句作家の上野貴子が主宰する「おしゃべりHAIKUの会」が制定。句会等を通して、俳句の楽しさ、奥深さ、季節感の大切さ等を知ってもらうことが目的。記念日に合わせて、イベントや大会等を行なう。日付は、8月19日の「8」と「19」で、「俳句(は[8]い[1]く[9])」の語呂合わせから。「おしゃべりHAIKUの会」は、東京都世田谷区三軒茶屋に拠点を持ち、初心者から上級者まで、自由な感覚で楽しく学べる俳句教室である。俳句が、楽しく、毎日の生活に新たな発見と、心の絆を与えてくれることを願い、全ての俳句に感謝をしながら活動しているという。一般的には、俳句人口は老齢化し、減少が続いているとされるが、芸能人・著名人が、さまざまな分野での才能を競う企画で、TBS系列で放映されている毎日放送(MBS)製作のバラエティ番組『プレバト!!』では、俳人・エッセイスト、夏井いつきが査定を担当する「俳句の才能査定ランキング」への人気が特に高く、関連本の出版や派生企画・イベントの実施等に発展し、放送回・放送エリアによっては、10%台の視聴率(ビデオリサーチ調べ、世帯・リアルタイム)を記録することや、同じ時間帯に放送された番組の視聴率で(NHK総合テレビを含む)全局のトップに立つこともあり、関西地区では、2017(平成29)年の「新春3時間スペシャル」で、18.7%という高視聴率を記録した。 
バイクの日。
オートバイによる交通事故の増加を防ぐため、1989(平成元)年に総務庁(総理府の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織で、独任制の庁])交通対策本部(現在は内閣府の所管)が制定したもの。8月19日としたのは、8月19日の「8」と「19」で、「バイク(819)」の語呂合せから。特に、若者に対するバイクの安全運転教育を積極的に展開する日、と定めている。オートバイとは、原動機を搭載した二輪車である。バイク、或いはモーターサイクル、単車、自動二輪車とも呼ばれる。2つの車輪を前後に配置して、ガソリンエンジンや電気モーターといった原動機によって走行する乗り物を指す。自転車に原動機を備えたもので、原動機の動力のみで走行することができるものも含めて、このように呼ぶこともある。基本的には、二輪のものを指しているが便宜上、サイドカーを備えて三輪になっているものや、エンジン付き二輪車をベースにして開発・改造されてできた三輪車も、広義の「オートバイ」に含める場合がある。オートバイクという呼び方は、アメリカ英語「autobike」に由来する語である。1902(明治35)年にアメリカからエンジン付き自転車「トーマス」が輸入された当時は、英語と同様に「モーターサイクル」と呼ばれていたが、1923(大正12)年にオートバイ雑誌社(現在のモーターマガジン社)が発行する月刊誌『月刊オートバイ』が発売されて以来、「オートバイ」という呼び方が日本人に広く認知されるようになった。「単車」は、サイドカーを付けたものを「側車付き」と呼ぶのに対して、サイドカーを付けていないオートバイ単体を指す言葉として用いられていたが、サイドカーが希少なものとなった現在も、「単車」という言葉が生き残っている。なお、中国語でも、二輪車の意味で単車という言葉が存在する。20世紀に自動車(四輪)と共に、オートバイは個人の移動手段として大きく普及した。台湾、インドネシア、マレーシア、タイでは普及率が非常に高く、道路はオートバイで溢れている。インドや中国は人口超大国であり、それなりの台数となっているが、同時に国土も広く、東南アジアのオートバイ天国程ではない。統計的には、インドと中国におけるオートバイの台数が突出して多く、オートバイは殆どが実用目的で使われている。先進国の台数は相対的に小さいが、高価格帯の車種も売れており、モータースポーツも盛んで、趣味や道楽として楽しむ人も多い。日本では、明治時代にはオートバイは道楽といった認識で、富国強兵の国是の下に国産化の進められた他の産業に比較すると、特別な注力がなされることはなかった。そのため、僅かながら人の目に触れるようになり出したオートバイはほぼ全てが輸入車であり、開発や製造は、個人で小規模に行なわれるに過ぎなかった。日本で初めてオートバイの量産、商品化が実現されるのは、1933(昭和8)年のこととなったが、戦況の長期化、悪化によってオートバイ産業は軍需品の製造に転換せねばならなくなり、陸王内燃機でのみがオートバイを製造していた。陸王内燃機は、製薬会社の三共(現在の第一三共の前身の1つ)の多角経営策で設立された企業で、1931(昭和8)年にアメリカのオートバイ製造会社、ハーレー・ダビッドソンの輸入販売業として設立された。1935(昭和10)年に自社生産のハーレー・ダビッドソンが品川工場で初めて完成した。陸王の名称の由来は、陸王内燃機専務、永井信二郎の母校である慶應義塾大学の若き血のフレーズ「陸の王者」に因んで付けられたという。しかし、次第に十分な資材確保も難しくなり、1937(昭和12)年頃から製造を行なっていた帝国陸軍用の九七式側車付自動二輪車は、1943(昭和18)年には月産90台程度製造されていたが、戦争末期には月産50台に減少した。第二次世界大戦終戦後、日本の軍用機や軍用車を製造していた企業が、航空機や自動車の製造を禁じられたことから、所属していた技術者達は、その技術を生かす場を求めていた。一式戦闘機「隼」や四式戦闘機「疾風」といった、陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持ち、第二次世界大戦後に解体、平和産業へ転換させられた富士産業(航空機・航空エンジンメーカー、中島飛行機が改称した会社で、現在の重工業メーカー、富士重工業のルーツ)もその1つであったが、1945(昭和20)年当時、日本に駐留していた連合軍が持込んだ、アメリカのパウエル式やイギリスのコルギ式といったスクーターの簡素な車体が、材料が十分に確保できない状況で作れる製品として、富士産業の技術者関心を集め、規制の緩かったオートバイ業界へ技術者が流入し始めた。開発を始めたものの、材料不足は深刻で、一時は海軍機である双発爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに転用したり、ピストン周辺はダットサン(大手自動車メーカー、日産自動車の小型車ブランド)の部品を流用する等、新規に部品すら製造できない状況の中で、試作品は作られた。1946(昭和21)年の夏に試作機が完成し、同年11月から「ラビットスクーターS1」として発売された。定価は11,000円(現在の貨幣価値で約90,000円)程度であった。これは、交通の不便な終戦直後にあって歓迎され、月産300台から500台程度生産されることとなった。