8月18日 記念日 その6 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

産業用ワイパーの日。
東京都千代田区神田駿河台に本社を置き、産業用ワイパーの開発・販売を手掛ける企業、日本製紙クレシア株式会社が制定。日付は、8月18日の「8」と「18」で、「ワ(8)イ(1)パ(8)ー」と読む語呂合わせから。産業分野で発生する油の汚れ、不純物等の拭取り作業に使われる紙や不織布等の産業用ワイパー。モノづくりには必要不可欠な産業用ワイパーの存在を、多くの人に知ってもらうことが目的。日本製紙クレシア株式会社の産業用ワイパーには、拭取り性能、吸収性能に優れたリーズナブルな紙ワイパー「キムワイプ」「キムタオル」「JKワイパー」、水や薬液に濡らしても絞って使える丈夫な不織布ワイパー「ワイプオール」等がある。「キムワイプ」は、研究検査・分析の定番で、実験器具や部品の拭き取り等に使用される。トイレットペーパーやティッシュペーパー等の製造販売を主力とする日本製紙(日本第2位[世界では第8位]の製紙会社)グループの企業である日本製紙クレシア株式会社は、アメリカ合衆国の日用品メーカー、キンバリー・クラーク(ティッシュペーパーを世に送り出したことで有名な企業)が有するブランド、「クリネックス」と「スコッティ」を提供している。1963(昭和38)年、大手製紙会社の1つ、十條製紙株式会社とキンバリー・クラーク社の合弁により設立された十條キンバリー株式会社と、1961(昭和36)年、これも大手製紙会社の1つである山陽パルプ株式会社と、アメリカ合衆国の製紙会社、スコットペーパー社の合弁により設立された山陽スコット株式会社(1993[平成5]年に株式会社クレシアと社名変更)とが、1996(平成8)年に合併して株式会社クレシアとなった後の2008(平成20)年、現社名の日本製紙クレシア株式会社に社名を変更した。なお、6月6日は、東京都江東区佐賀に事務局を置く、ワイパーブレードのメーカーで構成する業界団体、日本ワイパーブレード連合会が制定した「ワイパーの日」となっている。この記念日は、車の安全に欠かせないワイパーに由来する記念日で、日付は、6月は梅雨の時期で、車のワイパーが一番活躍する季節であることと、運転席と助手席側の2本使われていることから、同じ数字が並ぶこの日を記念日とした。
カーセキュリティVIPERの日。
愛知県半田市花園町に本社を置く、自動車盗難防止装置や位置検索システムの開発、販売等を手掛ける企業、加藤電機株式会社が制定。加藤電機株式会社は、1993(平成5)年にアメリカのD.E.I.社と契約し、自動車盗難防止装置「VIPER(バイパー)」を日本で発売した。2023(令和5)年には、発売30周年となる。自動車の盗難認知件数は減少しているものの、部品狙い等の車両犯罪が増加していることもあり、記念日を通して、カーセキュリティの重要性を改めて意識してもらうことが目的。日付は、8月18日の「8」と「18」で、「バ(8)イ(1)パ(8)ー」と読む語呂合わせから。日本市場におけるカーセキュリティ分野において、20年以上に及ぶ加藤電機株式会社のノウハウを結集したブランド「VIPER(バイパー)は、これまでに120万台以上の販売実績を誇る。その歴史と実績をベースに、豊富なオプションアイテムやセキュリティニーズに合わせたブランドモデルは、品質の高さと安定性能からプロの警備保障会社を始め、大手自動車メーカー等、多方面から信頼されている。
太閤忌。
太閤、豊臣秀吉の1598(慶長3)年の忌日(旧暦)。「露と落ち露と消えにし命かな浪花のことは夢のまた夢」との辞世の句が伝えられている。太閤とは、摂政、又は関白の職を子弟に譲った人物のことで、近世以降、「太閤」と言えば、関白を甥の豊臣秀次に譲った後の豊臣秀吉のことを指すことが多くなる。豊臣秀吉が行なった全国規模の検地は、古くから「太閤検地」と呼ばれている。また、豊臣秀吉が大坂城を築いて天下に号令した大坂の地は、やがて江戸時代になると、「天下の台所」と呼ばれるまでの経済発展を遂げたが、地元大阪では、今日でもその最大の貢献者である豊臣秀吉を敬愛して、「太閤さん」と呼び親しんでいる。豊臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名、天下人、関白、太政大臣、太閤で、織田信長、徳川家康と並んで三英傑の1人とされる。初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子(兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度で、相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行なわれた)となり、藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。尾張国愛知郡中村郷(現在の愛知県名古屋市中村区に所在)の下層民の家に生まれたとされる。当初、今川家(今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国[現在の静岡県西部]頭陀寺城主の松下之綱)に仕えるも、出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで明智光秀を破った後、織田信長の孫である三法師(後の織田秀信)を擁して、織田家内部の勢力争いに勝ち、織田信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、豊臣姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は、太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制等の全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが、中国明朝の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の豊臣秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。豊臣秀吉の死後に台頭した徳川家康が、関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。1614(慶長19)年から1615(慶長19)年の大坂の陣で、豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城等が、機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。「猿面冠者」という言葉が残るように、豊臣秀吉が容姿から、猿と呼ばれたことは有名である。また、身長は小柄であったが、詳しい数字は不明で、髭は薄かったため、付け髭をしていた。当時の武将は髭を蓄えるのが習慣であり、髭の薄い者は、付け髭をすることもあったからである。人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏した島津義久に対し、丸腰の島津義久に自らの佩刀(腰に吊るす刀)を与え、小田原征伐で遅参した伊達政宗にも佩刀を預け、石垣山の崖上で二人きりになった。両名共、豊臣秀吉の度量に気を呑まれ、斬り付けることはできなかったという。他にも、小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を、近習1人を連れて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら、翌日の拝謁の打合わせをした。賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に羽柴秀吉(当時)は、農家から大量の菅笠を買い、敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給う程の大将は、かく御心の付き給うものかな」とも評価される。関白就任後、豊臣秀吉が可愛がっていた鶴が、飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で豊臣秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという。豊臣秀吉はスケールの大きい「大気者」であったとも言われているが、狭量な面もあり、世評を気にして、北野大茶湯(1587[天正15]年に京都北野天満宮[現在の京都市上京区に所在]境内で、豊臣秀吉が主催した大規模な茶会)や華美な軍装等、人々の評判が上がる行為を頻繁に行なった。豊臣秀吉は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、諸大名を実質的に自らの家臣とした。織田家との主従関係は、これによって逆転している。また、天皇の名を使って、惣無事令(大名間の私闘を禁じた法令)等の政策を実行し、これに従っていないということを理由として、九州や関東以北を征服する等、戦いの大義名分作りにも利用している。これらの手法は、かつて織田信長が、足利義昭の将軍としての権威を様々に利用したことや、足利義昭と対立した際に、朝廷と接近したことと共通するものである。さらに、豊臣秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を、自身の配下達に次々と与え、天皇を頂点とした体制に組入れた。この方策・体制は、「武家関白制」等と呼ばれる。このように、豊臣秀吉の地位は天皇の家臣であったが、実質的な日本の支配者は豊臣秀吉であったことが、様々な史料から読み取れる。豊臣秀吉が、事実上の権力者として政治を行なっていることから、摂関政治の一種とも解釈されることがある。天下統一を成遂げた上、天皇・朝廷の権威まで加わったので、豊臣秀吉の権力は絶大であったが、一方では、天皇の権威を借りているために、政権に不安要素も抱えることになってしまった。後に、豊臣秀吉の三男で、家督を継いだ豊臣秀頼が関白になれなかったことは、徳川家による政権奪取や豊臣家滅亡の一因となった。