8月12日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

太平洋横断記念日。 
1962(昭和37)年8月12日、家業は自動車部品工場で、当時23歳であった海洋冒険家の堀江謙一が、全長5.8m、幅2mの小型ヨット『マーメイド号』で太平洋単独横断に成功し、アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州サンフランシスコに到着したことに由来する。兵庫県西宮市を出発してから、93日振りの快挙であった。当時は、ヨットによる出国が認められなかったため、「密出国」という形になった。大阪海上保安監部は、家族から捜索願が出された時点で、全国の海上保安本部へ「消息不明船手配」を出すと共に、「不法出国」についても捜査を始め、幹部は当初、取材に対して「堀江君はすぐに身柄を拘束され、日本へ強制送還されるだろう」とコメントし、日本の行政当局からは「人命軽視の暴挙」と非難されたが、当時のサンフランシスコ市長が「コロンブスもパスポートは省略した」と、尊敬の念をもって名誉市民として受入れ、1ヶ月間のアメリカ滞在を認ると報道されたところ、日本国内のマスコミ、及び国民の論調も、手のひらを返すように堀江謙一の偉業を称えるものに変化した。その後、帰国した堀江謙一は、密出国について当局の事情聴取を受けたが、結果的には起訴猶予となった。『マーメイド号』は現在、サンフランシスコのアメリカ国立海洋博物館で保存公開されている 船名は、資金不足に悩んでいる際、繊維メーカーの敷島紡績(現:シキボウ)からの、同社商標の人魚マークを入れてくれれば帆を一式寄付する、との申し出を受入れたことに因んでいる。帰国後に出版された、堀江謙一の著書『太平洋ひとりぼっち』はベストセラーとなり、堀江謙一は同1962(昭和37)年の菊池寛賞(文芸の向上顕揚を計ることを目的として設立された、日本文学振興会が主催する、文芸・映画等、様々な文化分野において業績を挙げた個人や団体を表彰する賞)を受賞している。翌1963(昭和38)年には、日本を代表する俳優・声優・歌手であり、司会者やモデルといったマルチタレントで、実業家・ヨットマンとしても活動していた石原裕次郎の主演で映画化もされた。石原裕次郎が設立した、芸能事務所、制作プロダクションである株式会社石原プロモーション(略称は「石原プロ」)の映画制作第1回作品で、監督には、娯楽映画から実験的映画、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手掛け、昭和の日本映画黄金期から21世紀初頭まで、第一線で映画制作に取組んだ映画監督、市川崑が起用された。監督・市川崑、主演・石原裕次郎の組合わせは、この『太平洋ひとりぼっち』が唯一である。石原裕次郎主演作品では、初のキネマ旬報ベストテン(世界最古クラスの映画賞で、1924[大正13]年に外国映画のみを対象として「芸術的に最も優れた映画」「娯楽的に最も優れた映画」の2部門を、編集同人の投票により選出したことから始まり、日本映画の水準が高くなったことを理由に、1926[大正15]年から日本映画も対象となった)入賞作となり、単独主演では、その後も含めて唯一となった。ストーリーは、石原裕次郎扮する「堀江謙一をモデルとした青年」が、兵庫県西宮を出港してサンフランシスコに向かう航海の中で、「出発までのできごと」を回想しつつ、アクシデント等を乗越えて、無事サンフランシスコに到着するまでを描いたものである。特殊撮影は、当時設立間もない円谷プロダクション(昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で、特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様と呼ばれる、撮影技師・特撮監督・映画監督の円谷英二が設立した独立映像製作会社で、高度な特殊撮影技術を用いた作品を作ることで知られ、『ウルトラシリーズ』を始めとする数多くのテレビ番組や劇場用映画を製作し続けている)が担当しており、円谷プロダクション(円谷プロ)が初めて本格的に特撮を手掛けた作品である。堀江謙一は、後の1974(昭和49)年には、ヨット『マーメイドIII号』で、イギリス人のロビン・ノックス・ジョンストンに次ぐ世界で2人目の単独・無寄港世界一周航海を、270日余りで成功させた。さらに、2004(平成16)年には、ヨット『SUNTORY マーメイド号』で、単独無寄港による世界一周航海(東回り)に挑戦し、10月に西宮市の新西宮ヨットハーバーから出発し、2005(平成17)年6月に同地に帰還を果たした。東西両方向周りで世界一周航海をしたのは日本人初、世界でも、オーストラリア人に次ぎ2人目という記録である。  
配布の日。 
東京都新宿区西新宿に事務局を置く、ポスティングや街頭での配布(サンプリング)等を行なう企業の団体、有限責任事業組合日本広告配布事業協会(JADA)が制定。広告宣伝の中での配布の役割をPRし、業界の活性化を図ることが目的。日付は、8月12日の「8」と「12」で、「配布(は[8]い[1]ふ[2])」と読む語呂合わせから。「ポスティング」とは、各戸の郵便受けに広告やチラシ等を投入すること、広告での「サンプリング」という用語は、街頭等において試供品(サンプル)を配布する手法で、和製英語である。
アルプスの少女ハイジの日(ハイジの日)。 
アニメーションのキャラクターとして、絶大な人気を誇る『アルプスの少女ハイジ』。その魅力を多くの人に伝えるために、東京都墨田区両国に本社を置き、『アルプスの少女ハイジ』の著作権等の管理を手掛ける、キャラクターの管理運営等を手掛ける企業、株式会社サンクリエートが制定。日付は、8月12日の「8」と「12」で、「ハ(8)イ(1)ジ(2)」と読む語呂合わせから。制定日は、アニメーション「アルプスの少女ハイジ」の元(原案)となった長編児童文学小説「HEIDI」の作者であるスイスの作家、ヨハンナ・シュピリの誕生日(6月12日)とした。この日を中心に、イベントや「ハイジの日」限定商品の販売等を行なっている。 『アルプスの少女ハイジ』は、スイスの生活や動物の動き等をアニメーションで表現している。何度も地上波や通信衛星放送(CS)で再放送された上、キャラクターグッズやCM、公認のパロディも数多く製作されている。この作品を制作するに当たり、スタッフは海外現地調査(ロケーション・ハンティング)を約1年間行なった。調査には、アニメ演出家・映画監督・アニメプロデューサーの高畑勲、アニメ作家・映画監督の宮崎駿、アニメーター・キャラクターデザイナーの小田部羊一らが参加しており、その成果は作品作りに生かされた。日本のアニメーションとしては、ヨーロッパ各国で広く放送された存在で、アラブ諸国やアフリカ・アジアも含め、英語圏を除く世界中の国々でも放送された。因みに、『アルプスの少女ハイジ』の熱狂的ファンを自称するドイツ語翻訳家・社会運動家の池田香代子が、知合いのドイツ人のおじさんに「これが日本で製作された作品だとは思わなかった」と言われた、と後に語っている。製作は、瑞鷹エンタープライズ(当時、現在の瑞鷹株式会社)の子会社、「ズイヨー映像」で、社長の高橋茂人は、『アルプスの少女ハイジ』を創るために、「ズイヨー映像」を興している。アニメーションの企画と版権営業(番組販売)を事業とする瑞鷹エンタープライズは、1974(昭和49)年に放映された『アルプスの少女ハイジ』により、「日常生活を丁寧に描いたアニメーション作品」という新機軸を開拓し、『アルプスの少女ハイジ』は、作品的にも商業的にも大成功を収めた。