8月4日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

橋の日。
郷土のシンボルである河川とそこに架かる橋を通して、ふるさとを愛する心の高揚と河川の浄化を図ろうと、当時、宮崎市在住で、橋梁会社に勤務していた湯浅利彦の提唱により、1986(昭和61)年、宮崎市佐土原町下那珂に事務局を置く任意団体、宮崎「橋の日」実行委員会が、8月4日の「8」と「4」で、「橋(は[8]し[4])」と読む語呂合せから制定。郷土のシンボルである河川と、そこに架かる橋を通して、ふるさとを愛する心と、河川の浄化を図ることが目的。1986(昭和61)年に宮崎県延岡市で、「第1回橋の日イベント」が実施されて以来、「橋の日の歌」の作成等、その活動は全国の都道府県に広がっている。2015(平成27)年には、「橋の日」が全国47都道府県で実施され、その功績が讃えられ、企業や団体、自治体、個人等が設けた記念日の認定・登録を行ない、ホームページで紹介する等、様々なPRを行なう、長野県佐久市安原に所在する民間団体、日本記念日協会より「記念日文化功労賞」を受賞した。また、29年間続けた道路清掃活動に対して、東京都千代田区霞が関に所在する公益財団法人、日本道路協会より表彰状を受けた。橋、或いは橋梁は、人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路等の交通路上の交差物を乗越えるための構造物である。橋の起源については、はっきりしたことは判らないが、偶然に谷間部分を跨いだ倒木や石であったと推測されている。その後、人類が道具を使うようになってからは、伐採した木で丸木橋が造られるようになった。また、木々に垂下がっている蔓を編んだ吊橋の原型とされる蔓橋や、より長い距離を渡るために、川の中で飛び出た石の頂部に丸木を渡したり、自然石を積上げて橋脚を築いたり、杭を打込み橋脚にしたことも考えられている。紀元前5世紀から6世紀頃には、石造の桁橋が架けられていた。古代ローマ(イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家)時代に、道路網の整備に伴なって各地に橋が架けられ、架橋技術は大きく進歩した。古代ローマ時代には、橋を架けることは聖職者の仕事であった。中国や日本でも、橋は仏教僧侶が架けることが多かった。日本での記録に残っている最古の橋は、日本に伝存する最古の正史『日本書紀』によると、第12代天皇、景行天皇の時代に現在の福岡県大牟田市にあった「御木のさ小橋(みきのさおはし)」である。巨大な倒木による丸木橋とされている。人工の橋では、同じく『日本書紀』によると、第16代天皇、仁徳天皇の時代に、現在の大阪市に「猪甘津橋(いかいつのはし)」が架けられたのが最古とされている。また、僧侶が橋を架けたことが知られている。これは、僧侶が遣隋使や遣唐使として、中国に渡り技術を学んできたことや、救済の一環として土木事業を指導したことによる。宇治橋(現在の京都府宇治市の宇治川に架かる橋)を架けた法相宗(万有は識、即ち心の働きによるものとして、存在するものの相を究明する宗派)の僧、道昭や山崎橋(現在の京都府八幡市と京都府乙訓郡大山崎町で淀川に架かっていた橋)を始めとする行基(僧侶を国家機関と朝廷が定め、仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り、畿内[近畿]を中心に、民衆や豪族等、階層を問わず広く仏法の教えを説き、人々より篤く崇敬された僧侶)の活動、平安時代初期の僧、空海(と弘法大師伝説)はよく知られている。一方、当時の律令政府は、勢多橋(現在の滋賀県大津市瀬田の瀬田川に架かる瀬田の唐橋)等の畿内の要所を例外とすれば、橋の築造には消極的であった。戦乱の続いた時代では、橋は戦略上重要な拠点となるため、守備用の塔が付属して建てられたり、戦時に簡単に壊せるようになっていたものも多い。律令制度の衰退と共に交通路も衰退し、橋の整備も、資力や技術に乏しい現地に委ねられたため、架橋技術は発達しなかった。更に、治水技術の未熟から、しばしば発生した雪解けや大雨に由来する増水にも弱く、船橋のような仮橋や、渡し舟による代替で間に合わされるケースが多かった。こうした傾向は江戸時代末期まで続き、江戸時代に大河川に架橋がされなかったのも、実際には軍事的な理由と共に、技術的要因による部分も大きかった。安土桃山時代から江戸時代に入ると、都市部や街道において、ようやく橋の整備が進められるようになった。江戸時代の大都市には、幕府が管理した橋と町人が管理して、一部においては渡橋賃を取った橋が存在し、江戸では「御入用橋」「町橋」、大坂では「公儀橋」「町人橋」と称した。また、大陸文化の影響を受けた九州地方では、中国明朝出身の僧侶、如定による長崎の眼鏡橋の造営を始めとする石造りの橋が多く作られ、江戸時代末期に作られた通潤橋(現在の熊本県上益城郡山都町にある石造単アーチ橋)は、肥後国(現在の熊本県)地方の石工らによって様々な工夫がされたことで知られている。また、石積みの橋桁と木製のアーチを組合わせた錦帯橋(現在の山口県岩国市の錦川に架橋された橋)等、中小河川における架橋技術の発達を示す例が各地でみられるようになった。18世紀半ばから19世紀になると、産業革命(綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長、蒸気機関の開発による動力源の刷新等、一連の産業の変革と、それに伴なう社会構造の変革)によって生じた、鉄を用いた橋が出現する。さらに、鉄道網の進展、自動車の普及と交通量の変化に合わせて、重い活荷重に耐えられる橋が要求されるようになってきた。また、経済の急速な発展に伴ない、経済的で短い工期が重視された。現代の橋は、構造の強さだけでなく、需要に即した規模、気象条件、景観を含めた周辺環境への配慮、ライフサイクルコストの経済性を含めた設計が要求される。日本全国には、約157,000(15m以上)の橋がある。橋に求められる要件は、橋に掛かる荷重を支えること、及び、荷重が掛かっても変形が大きくなり過ぎないことである。特に、地震や台風の多い日本では、地震発生時や、台風通過時の安全性を確保することが重要になる。また、橋には実用性だけではなく、デザイン性も求められる。橋のような大きく目立つ構造物は、その地域のシンボルになり得るため、構造物自体の優れたデザイン性や、周囲と調和するデザインを有していなければならない。さらに、莫大に膨れ上がった公共事業費の削減が叫ばれる日本では、経済性も重要である。なお、『ギネス世界記録』(イギリスの出版社、ギネスワールドレコーズが、地球上のあらゆる世界一を探求し、認定・登録してきた記録集)に公式認定されている世界最長の橋は、アメリカ合衆国南部、ルイジアナ州のポンチャートレイン湖に架かる全長38.42kmの橋、ポンチャートレイン湖コーズウェイである。世界最長の海上橋は、2018(平成30)年に開通した港珠澳大橋である。中国南部にある、広東省の珠海市と、香港新界離島区ランタオ島、及び、マカオ花地瑪堂区を結ぶ海上橋、港珠澳大橋は、香港とマカオの間を通って南シナ海に注ぐ川、珠江の河口湾(珠江口)を東西に連絡する、片道3車線(合計6車線)の自動車専用橋であり、全長は49,968m。吊り橋として世界最長の橋は、兵庫県神戸市垂水区東舞子町と兵庫県淡路市岩屋とを結ぶ、明石海峡を横断して架けられた明石海峡大橋で、全長3,911m、中央支間は1,991mとなっており、この中央支間長が世界最長である。鉄道車道併用トラス橋として世界最長の橋は、大阪府泉佐野市のりんくうタウンと関西国際空港島を結ぶ関西国際空港連絡橋で、橋長の3,750mが、鉄道車道併用トラス橋として世界最長となっている。関西国際空港島の唯一の陸上アクセスを担い、「スカイゲートブリッジR」の愛称が付けられている。上部構造は、上に道路(6車線)、下に鉄道(複線)が走る2階建て構造で、さらに、電気・ガス・水道・電話(固定電話)等のライフライン全てがこの橋を利用する。