7月24日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0672年 - 大海人皇子(後の第40代天皇、天武天皇)が、大友皇子(弘文天皇、1870年に諡号[その人の高貴さや具体的な高徳を表わした美称を死後に贈るもの]を贈られ、第39代天皇として認められたが、即位したかどうか定かではない)を討つ為に吉野(現在の奈良県南部に所在)を出発。これが、壬申の乱の始まりとなる。壬申の乱は、古代日本最大の内乱である。第38代天皇、天智天皇の第一皇子、大友皇子に対して、天智天皇の両親を同じくする弟に当たる大海人皇子が、地方豪族を味方に付けて反旗を翻したもので、反乱者の大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱となる。
0721年 - 信濃国(現在の長野県に相当)を分割して諏訪国(領域は、現在の長野県西部に相当)を設置。諏訪国の詳細な領域は不明であり、諏訪国は731年に廃止され、信濃国に復したため、短期間しか存続していない。
0757年 - 橘奈良麻呂の乱: 第30代天皇、敏達天皇の後裔(子孫)で臣籍降下(皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りること)した橘奈良麻呂らによる、藤原仲麻呂(当時の政権と軍権の両方を掌握していた公卿[最高国家機関、太政官の最高幹部])打倒計画が発覚し、橘奈良麻呂らは逮捕される。
0825年 - 第50代天皇、桓武天皇の第三皇子、葛原親王の長男である高棟王が、臣籍降下して平姓を賜る。桓武平氏の始まり。「平」を氏の名とする氏族、平氏は、臣籍降下の際に名乗る氏の1つで、姓の代表的なものの1つとして、源氏、藤原氏、橘氏と共に「源平藤橘」(四姓)と総称されている。有名な桓武平氏を含め、4つの流派がある。しかし、後世に残ったものの殆どは、高棟王の流れの桓武平氏であり、武家平氏として活躍が知られるのは、桓武平氏の内、葛原親王の三男である高見王の子とされる、高望王流坂東平氏の流れのみである。
0930年 - 清涼殿落雷事件。清涼殿(平安京にある天皇の御殿)に落雷があり、公卿2名が即死する。かつて大宰府に左遷された、菅原道真の怨霊との噂が流れる。
1216年 - イタリアの貴族、チェンチオ・サヴェッリがローマ教皇ホノリウス3世となる。
1567年 - スコットランド女王メアリーが退位させられ、1歳の長男ジェームズが即位する。
1587年 - 豊臣秀吉がバテレン追放令を発令。バテレン追放令は、キリスト教宣教に関する禁制文書である。豊臣秀吉は元来、織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していたが、九州平定後、筑前箱崎(現在の福岡県福岡市東区に所在)に滞在していた豊臣秀吉は、長崎がイエズス会(カトリック教会の男子修道会)領となり、要塞化されていることを知らされる。これに驚いた豊臣秀吉は、キリスト教宣教の制限を表明する。禁令を受けたイエズス会宣教師達は平戸に集結して、以後公然の布教活動を控える。日本の商人と南蛮人(ポルトガル王国、スペイン帝国の商人)との間で16世紀半ばから17世紀初期にかけて行なわれていた貿易、南蛮貿易のもたらす実利を重視した豊臣秀吉は、京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行なっていない。豊臣秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのは、1596年10月のサン=フェリペ号事件(土佐国[現在の高知県]にスペインのガレオン船[帆船の一種]、『サン=フェリペ号』が漂着し、その乗組員の「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教と共に征服を事業としている」という意味の発言が大問題となった事件)以後のことである。
1847年 - アメリカの宗教家、ブリガム・ヤング率いる末日聖徒イエス・キリスト教会(キリスト教系の新宗教で、通称はモルモン教会)の信徒が、アメリカ合衆国西部、ユタ州ソルトレイクシティに到着、教会の本拠を置く。
1864年 - 南北戦争: 第二次カーンズタウンの戦いが行なわれる。
1866年 - レコンストラクション(アメリカ南北戦争によりアメリカ連合国と奴隷制システムが崩壊した後の問題を解決しようとする、1863年[又は1865年]から1877年までの過程を意味するアメリカ合衆国史の用語): テネシー州(現在は、アメリカ合衆国南部の州)がアメリカ連合国諸州で初めてアメリカ合衆国に復帰。
1907年 - ハーグ密使事件(日露戦争終結後に締結された第二次日韓協約によって、外交上の日本の保護国となり、既に直接の外交権を失っていた大韓帝国[1897年から1910年までの間、李氏朝鮮が使用していた国号]が、オランダ南西部のハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権回復を訴えようとするも、国際社会の列強から会議への参加を拒絶され、目的を達成することができなかった事件)を受けて、第三次日韓協約が締結される。これにより、朝鮮の内政は日本の強い影響下に入る。
1908年 - ロンドンオリンピック(第4回オリンピック競技大会)の男子マラソンで、イタリアのドランド・ピエトリが係員の助けを借り、最初にゴールに辿り着いたが失格となり、2着であったアメリカのジョニー・ヘイズが金メダルとなる。
1911年 - アメリカの考古学者、ハイラム・ビンガム3世がマチュ・ピチュ遺跡を発見する。マチュ・ピチュ遺跡は、ペルーの南部山地に位置する15世紀のインカ帝国の遺跡であり、未だに解明されていない、多くの謎を持つ遺跡でもある。当時、インカ帝国の首都はクスコで、標高約3,400m。標高約2,430mのマチュ・ピチュから、さらに1,000m程高い場所にその首都があった訳であるが、アンデス文明は文字を持たないため、この遺跡が何のために作られたのか、首都との関係・役割分担等、その理由はまだ明確に分かっていない。
1923年 - 希土戦争(ギリシャとトルコとの間に生じた戦争)の講和条約、ローザンヌ条約が締結される。
1927年 - 作家、芥川龍之介が服毒自殺する。遺著として、一種の自伝である短編作品『或阿呆の一生』等が発見される。
1929年 - 「不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)」が発効。1928年8月27日には、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国を始めとする15ヶ国が署名し、その後、ソビエト連邦等、63ヶ国が署名する。フランスの首都パリで締結されたために「パリ条約(協定)」、或いは「パリ不戦条約」と呼ぶこともある。国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定する。「不戦条約」は、その後の国際法における戦争の違法化、国際紛争の平和的処理の流れを作る上で大きな意味を持った一方で、加盟国は原則として自衛権を保持していることが、交渉の過程で繰返し確認されており、また、「不戦条約」には、条約違反に対する制裁は規定されていない。その他にも、自衛戦争の対照概念たる「侵略」の定義が行なわれておらず、第一次世界大戦で多大な効力を発揮した経済制裁(ボイコット、拿捕や敵性資産の没収等)が戦争に含まれるのか不分明であり、戦争に至らない武力行使、国際的警察活動(海賊やテロリストの取締、特に、他の締約国内での武力行使を伴なう)、中立国の権利義務等、不明確な点を多く含んでいる。条約には、期限や、脱退・破棄・失効条項が予定されていないため、この条約は現在でも有効、との論がある。しかし、国際連合憲章第2条により、改めて「武力行使」の慎戒が協定されており、歴史に属する条約として象徴的、或いは、学術的に言及されることが一般的である。