7月20日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

月面着陸の日。 
1969(昭和44)年7月20日、全世界が注目する中で、アメリカ合衆国が打上げたアポロ11号の司令船「コロンビア」から分離された、月着陸船「イーグル」が月面「静かの海」に着陸し、人類が史上初めて月面に立った。なお、日本時間では7月21日早朝であるため、7月21日が月面着陸の日とされることもある。アポロ計画は、アメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画である。アポロ計画(特に月面着陸)は、人類が初めて、かつ、現在のところ唯一、有人宇宙船により地球以外の天体に到達した事業である。これは、宇宙開発史において画期的なできごとであっただけではなく、人類史における科学技術の偉大な業績としても、しばしば引用される。冷戦(第二次世界大戦後の世界を二分した、西側諸国のアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、東側諸国のソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造)下の米ソ宇宙開発競争の最中の1961(昭和36)年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、1960年代中に人間を月に到達させる、との声明を発表した。この日、宇宙飛行士ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン月着陸船操縦士がアポロ11号で月面に着陸したことにより、その公約は実現される。着陸船は、アメリカの国鳥であるハクトウワシ(北アメリカ大陸の沿岸部に広範囲に分布する大型のワシ)を計画の徽章(身分・資格・所属団体等を表わすために、衣服・帽子等に付ける印)として使用することが決定された後、「イーグル (Eagle)」と命名された。また、司令船の「コロンビア (Columbia)」は、アメリカ自体を象徴する伝統的な女性名で、フランスの作家で、SFの父とも呼ばれるジュール・ヴェルヌの長編小説『月世界旅行』に登場する、宇宙船発射用の大型大砲「コロンビアード」にも因んでいる。アメリカ航空宇宙局(NASA)は計画段階では、司令船を「スノー・コーン(かき氷)」、着陸船を「ヘイスタック(干し草)」という暗号名で呼んでいたが、マスコミに公表する際に変更された。アポロ計画は、ロケットや有人宇宙船の開発に伴なう関連技術の発展に拍車を掛け、特に、電子工学や遠隔通信、コンピュータ等の分野において大きく貢献した。また、幾つもの部分から構成された複雑な機器の信頼性を検査するために、統計的な手段を用いる手法を開拓する等、多くの工学の分野の発展にも繋がった。有人宇宙飛行のために必要不可欠な構成物であった事物や機器は、文明、技術、電子工学の表章として今も残されている。計画で使用された多くの事物や遺物が、国立航空宇宙博物館(NASM、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にある、航空機と宇宙船に関連した収集物を展示する博物館)を始めとする、世界各地の様々な場所で展示されている。アポロ11号で、人類は地球の歴史上初めて地球以外の天体の上に降立ち、ニール・アームストロングは有名な「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という言葉を残した。ニール・アームストロングはまた、重力が地球の約6分の1しかない月面は、歩き回るには何の困難もなく、むしろ訓練よりも余程楽であると報告した。アポロ11号の飛行は、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディの「1960年代の終わりまでに人間を月面に到達させよ」という最高指令の実現であるのみならず、様々な技術への挑戦という側面も持っていた。ニール・アームストロングは後の飛行の参考になるよう、様々な角度から着陸船の写真を撮影し、その後で、細長い棒で砂サンプルを掻き集めてバッグに詰め、右腿のポケットに押込んだ。さらに、着陸船の脚からテレビカメラを取出して月面をパノラマ撮影した後、それを約12m離れた場所で三脚の上にセットした。カメラのケーブルには巻付けられていた時の丸みが残っていたため、引伸ばすのにはやや苦労した。ニール・アームストロングから遅れること15分、バズ・オルドリンも月面に降立ち、月の様子を「荘厳かつ荒涼とした風景」と表現した。両足で踏切る「カンガルー・ジャンプ」等、様々な歩行法を試みると、背中に負っている生命維持装置のために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには何の問題もなく、慣れてくるとむしろ大股で歩いた方がよいことが分かった。但し、移動する際は、常に6歩から7歩先のことを予想する必要があった。また、月面の明るい部分は極めて滑り易く、太陽が照っている所から着陸船の影に入った時には、宇宙服の中の温度には全く変化はなかったが、ヘルメットの内部には明白な温度差が感じられたと報告した。約2時間半の月面活動で、ニール・アームストロングとバズ・オルドリンは、地震計や地球と月との距離を測定するためのレーザー反射板等、様々な観測装置を月面に設置した。科学機器の他には、星条旗や、飛行を記念したプレート等も残してきた。記念プレートは着陸船の正面の脚に貼られていて、地球の東半球と西半球、3名の飛行士とアメリカ合衆国第37代大統領リチャード・ニクソン(当時のアメリカ合衆国大統領)の署名、そして「西暦1969年7月、惑星地球から来た人間が月面に初めて足を踏み降ろしたことをここに記念する。我々は全ての人類の平和のために来た」という声明が書かれていた。バズ・オルドリンは、スコップや伸張式の鋏を使って、土壌サンプルや岩石を採集した。しかし、月面活動の時間が予想外に長引いたため、サンプル採集活動は、予定されていた34分間を途中で切上げなければならなかった。予定されていた月面活動を全て消化すると、まずバズ・オルドリンが先に着陸船に入った。採集した岩石やフィルム等を収めた箱は重量が約22kgに達し、「月面コンベア」と呼ばれる装置で引っぱり上げたが、船内に入れるのには若干苦労した。それからニール・アームストロングは、はしごの3段目まで一気にジャンプして飛乗り、自分も船内に入った。宇宙服の生命維持装置、月面靴、カメラ等の必要がなくなった機材を放り捨てると、ハッチを閉めて船内を与圧し、2人はようやく月面での初めての睡眠についた。バズ・オルドリンは、船内で作業している時、誤って上昇用エンジンを起動させるブレーカーのスイッチを壊してしまった。幸いにも、ボールペンの先でスイッチを入れることができたが、もしエンジンに点火できなければ、2人は永久に月面に取残されることになっていた訳である。7時間の睡眠の後、2人は離陸の準備を開始し、約2時間半後に着陸船は月面を離陸した。司令船コロンビアとのドッキングにも成功して、軌道上で2人を待っていたマイケル・コリンズ司令船操縦士と無事再会を果たした。当時のアメリカ航空宇宙局(NASA)は、司令船で月を周回することまでは成功していたが、月面からの離陸に関しては初の試みであり、2人を月から帰還させることについては、完全に保証することができない状況であった。そのため、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、2人が帰還できなくなった場合の「追悼の言葉」を事前に準備しており、これは後の1999(平成11)年にアメリカ国立公文書記録管理局で発見され、公開発表された。2009(平成21)年、月面からの高度50kmの極軌道を周回する、アメリカ合衆国の月周回無人衛星ルナー・リコネサンス・オービター(LRO)によって、アポロ11号の着陸地点が撮影され、月着陸船や、月面に設置した機器等が撮影され、2012(平成24)年3月に公開された。