7月17日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

祇園祭/山鉾巡行(さらに、続き)。
後祭の山鉾は、7月24日の9時30分に烏丸御池を出発し、前祭の逆コースを行く。生稚児の乗る鉾がないため、注連縄切りはない。くじ改めは京都市役所前で行なわれる。以前は、巡行時に鉾の上から囃し方が粽(ちまき)を観衆に投げていたが、粽を取合った観客が怪我をしてからは危険とされ、現在は禁止されている。この粽は厄除け用として作られており、笹の葉の中に餅は入っていない。近年になって、一部の鉾町が食用の粽も販売しているが、極一部に留まっている。なお、祇園祭に由来する祭である大津祭では、現在でも粽投げが行なわれる。囃子方になるためには(一部例外はあるものの)鉾町の住民の男子であるか、又は鉾町以外でも、現役の囃子方の推薦を受けた子どもに限られている。2011(平成23)年現在では、学区の統廃合で一部の学校は無くなってしまったが、昭和の時代には、明倫小学校や本能小学校等の地元の男子児童で、鉾の囃子方であることも普通に見られる光景であった。山鉾巡行時の山鉾の曳き手は、町内の住人であったり、学生アルバイト、留学生、ボランテイア等、多岐に亘る。元々、舁山(かきやま・担ぐ山の意味)には車輪が付いておらず、神輿のように肩に担いでいたが、都市化により、担ぎ役となっていた力自慢の近隣農家が減少し、担ぎ手の確保が困難となったため、1963(昭和38)年に保昌山が初めて車輪を取付け、郭巨山を最後に、現在は全て車輪付きとなっている。それでも、巡行の要所では、今でも山を担いで回転させるパフォーマンスが見られる。巡行終了後、各山鉾町に戻った山鉾は、即座に解体・収納される。巡行中に疫神を引受けた山鉾を即座に封印するため、という説がある。山は数時間で解体・収納が完了するが、鉾や曳山は、2日間かけて解体・収納するところが多い。1968(昭和43)年11月23日、京都に題材を採った作品が多い作家、西口克己の長編小説『祇園祭』(1961[昭和36]年、中央公論社刊)を原作とする、応仁の乱後、京都の町衆達が室町幕府権力に抗して自治体制を築き、その象徴としての「祇園祭」を復興する、というストーリーの映画『祇園祭』が公開された。当初は1961(昭和36)年、時代劇映画の基礎を作った名監督の1人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる映画監督の伊藤大輔が、歌舞伎から映画に転じ、一躍人気スターとなった時代劇俳優で、テレビや舞台でも活躍した中村錦之助(後に萬屋錦之介と改名)主演で、東映(同業他社に比べて、映像部門等が多岐に亘る映画の製作、配給、興行会社)に企画を提出し、西口克己から原作の映画化権も買い、翌年夏より製作する予定で脚本作成を進めていたが、未定稿の段階で製作費が莫大になることが問題になり、製作中止となった。その後、映画界の斜陽、時代劇の衰退によって、東映は撮影所の合理化とスタッフや俳優等の人員整理を断行し、また、時代劇から任侠路線への転換を行なうが、それに反発した中村錦之助は、1966(昭和41)年春に東映を退社して、活躍の場をテレビと舞台に求める。伊藤大輔もフリーになって、中村錦之助の舞台公演の脚本・演出を手掛けていた。『祇園祭』の映画化が再浮上し、製作が具体化したのは、京都府政百年記念事業として、京都府、及び京都市の協力が得られる見通しが立った1967(昭和42)年7月で、「日本映画復興協会(代表中村錦之助)」の名の下に、同1967(昭和42)年8月に製作発表された。監督伊藤大輔、主演中村錦之助、製作費1億5千万円、同年11月クランク・イン、翌年4月公開の予定であった。しかし、脚本の問題、スタッフの降板、製作費の調達等で難航し、ようやくクランク・インしたのは1968(昭和43)年8月となった。その後も、脚本完成の遅れ、伊藤大輔から、テレビ時代劇『水戸黄門』のメイン監督でもある映画監督・テレビ演出家・脚本家、山内鉄也への監督の交代、出演者の日程調整、製作費の増大(約3億円)、さらには政治的介入、ロケ現場での暴力団による妨害もあり、まさに艱難辛苦の末に完成した映画であった。最初の企画から完成まで、実に7年を経た労作でもある。そうした一方で、大手映画会社の主導ではなく、新たに設立された独立プロの日本映画復興協会による自主製作であったため、大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が1953(昭和28)年9月10日に調印した、専属監督や俳優らに関する協定、五社協定に縛られた映画会社の枠に捉われず、東映、東宝、松竹出身のスター俳優が進んで参加し、フリーの新劇俳優も加わり、中村錦之助、佐藤オリエ、岩下志麻、田中邦衛、志村喬、三船敏郎、田村高廣、下元勉、渥美清、北大路欣也、松山英太郎等、豪華で異色な配役となった。また、群衆シーンのエキストラとして、京都市民も数多く参加している。新日本興業・松竹映配の配給で、通常の邦画系映画館ではなく、洋画系映画館においてロードショー公開され、大ヒットを記録した。ロードショー終了後はフリー・ブッキング(映画館と映画配給会社との間で結ぶフィルム貸借契約の内、映画館がどの配給会社の作品でも自由に選んで上映できることを内容とするもの)で、日本各地の映画館や市民ホールで上映された。この成功は、日本の観客が時代劇に関して興味を持続けていることを証明し、また、映画会社大手5社による、映画館が特定の配給会社の作品だけを上映する制度、ブロック・ブッキングの配給制を打破したという点で、日本映画産業の将来に大きな影響を与えた。作品の上映権は現在、京都市が所持しており、その他権利関係が複雑に絡んでいるため、ソフト化の機会は得られておらず、祇園祭のシーズンに京都文化博物館・映像ギャラリーで行なわれる上映会が、唯一の一般公開である。祇園祭の内、とりわけ(広義の)山車、囃子といった山鉾巡行に関する要素は、これが都において、町衆・町人階層が執り行なう最も華やかな祭礼行事であるところから、その強い影響が全国各地の祭礼、とりわけ城下町等の、町人が行なう祭礼に広く伝播している。また、祇園祭という名称自体も、同祭神である牛頭天王(日本における神仏習合の神で、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた)やスサノオ(日本神話に登場する神で、牛頭天王と習合した)を祀る各地の社寺祭礼の名称として、また、単に夏祭りの名称としても、全国各地で広く用いられている。牛頭天王やスサノオを祭神とする祇園信仰の神社、八坂神社(八阪神社)は日本各地にあり、その総本社は、祇園祭(祇園会)で知られる京都の八坂神社とされる。祇園信仰の神社には、他に弥栄神社、祇園神社、広峯神社、天王神社、八雲神社、須賀神社、素盞嗚神社があり、時代や資料によって通用される。長野市上西之門町にある弥栄神社は、長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳等によって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった、善光寺の山門の南西、仲見世通りの2本西側の西之門通りに面して鎮座する。普段は観光客の喧騒からも離れた小さな神社であるが、古くは日本三大祗園祭にも数えられた「ながの祗園祭(弥栄神社御祭礼)」の舞台である。創建は一説に、源頼朝が信濃国(現在の長野県に相当)を視察した際、疫病除けのため京都八坂神社を勧請したという。