1935年 - アメリカ合衆国南中部、オクラホマ州中央部に位置する、州最大の都市にして州都のオクラホマシティで、世界初のパーキングメーター(駐車料金を徴収して、車両を一定時間駐車する権利を提供する機械)が設置される。
1935年 - 陸相(陸軍大臣、大日本帝国陸軍の軍政[軍隊に関する事務と統帥の一部を包括する行政組織管理]機関、陸軍省を担当した国務大臣)林銑十郎と陸軍省軍務局長(軍政担当部局の長)永田鉄山が、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した、皇道派の頭目の1人とされる教育総監(日本陸軍の教育を掌る役職)の真崎甚三郎を罷免。この措置は、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった皇道派と異なり、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという、合法的な形で列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した統制派の中心、軍務局長永田鉄山の意向に沿ったものと言われる。
1940年 - 日独伊三国同盟締結に絡んだ陸軍の画策で、陸相の畑俊六が辞職し、後任の陸相を陸軍が推挙しなかったため、海軍の良識派として知られた米内光政が、1940年1月16日に組閣した米内内閣が総辞職。
1941年 - メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)ニューヨーク・ヤンキースの外野手、ジョー・ディマジオが、メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)記録となる56試合連続安打を達成。この連続試合安打記録はメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)記録であり、今も破られていない。ニューヨーク・ヤンキースの第1期黄金時代を支えた両雄、ベーブ・ルースとルー・ゲーリッグが引退した後、ニューヨーク・ヤンキースのナンバーワン・プレイヤーとなり、1936年から1939年までのチームのワールドシリーズ4連覇に大きく貢献したジョー・ディマジオは、連続試合安打記録を達成した後も、本塁打王や打点王を獲得。ニューヨーク・ヤンキース一筋で、現役の間、チームの9回のワールドシリーズ制覇に大いに貢献する。その全盛期の期間、第二次世界大戦の従軍で3年間プレーしない時期があったこともあり、実働期間は13年と短かったが、球界を代表するスーパースターとして活躍し続ける。1951年に現役引退したジョー・ディマジオの背番号5は、ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番に指定されている。
1941年 - 第2次近衛内閣が総辞職。1940年9月27日、第二次世界大戦における枢軸国の原型となる日独伊三国軍事同盟を締結した後、対米戦決意を明らかにし、国防国家建設に全力を挙げる態勢を整えようとした第2次近衛内閣は、独断専行が目立つようになり、孤立を深めていた松岡洋右外相が、辞任を拒否したことから内閣総辞職し(大日本帝国憲法では、内閣総理大臣が閣僚を罷免できる権限が無かったため)、近衛文麿は、松岡洋右外相を外し、外相には、南進論者の退役海軍大将豊田貞次郎を任命して、第3次近衛内閣を発足させる。この事実上の松岡洋右外相更迭によって、南部仏印進駐は実行されることとなり、アメリカ・イギリスとの対立は、より一層深まっていくことになる。
1942年 - ホロコースト: ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件。ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党支配下のドイツ国)占領下のフランスで、ユダヤ人約13,000名が一斉に検挙される。なお、ヴェロドローム・ディヴェールとは冬期競輪場のことで、最初、検挙されたユダヤ人達はここに閉じ込められたことに由来する。
1945年 - マンハッタン計画: アメリカ合衆国が南西部のニューメキシコ州アラモゴードで、人類初の原子爆弾の実験に成功(トリニティ実験)。
1948年 - キャセイ・パシフィック航空機ハイジャック事件。中国大陸南岸のポルトガル領(当時)マカオから、中国大陸南岸のイギリス領香港(当時、マカオの東約65kmに所在)に向かっていた、キャセイパシフィック航空コンソリデーテッド・エアクラフト・PBY・カタリナ型双発水陸両用旅客機(飛行艇)で、ハイジャック犯が機長と副操縦士を射殺した結果、中華民国南部の広東省珠江河口付近に墜落。ハイジャック犯4名の内の1名は奇跡的に救助されたが、乗客・乗員合わせて25名の死者を出す。
1949年 - 昭和24年台風第4号(フェイ台風)が、翌17日にかけて九州西側をかすめて北上。集中豪雨により死者29名、行方不明者13名。全壊家屋150戸、床上浸水2,054戸。
1950年 - 1950 FIFAワールドカップ(第4回ブラジル大会)の決勝リーグ第3戦が、ブラジル南東部に位置するリオデジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンで行なわれ、ウルグアイがブラジルに2-1で逆転勝ちし、2度目の優勝を果たす。この大会は、歴代FIFAワールドカップで唯一、決勝ラウンドもリーグ戦で開催されたが、これは、スタジアム建設に多額の投資を行なったブラジルサッカー協会側からの、試合数増加を狙った提案に基づくもので、最終戦で引分け以上で優勝が決まっていたブラジルは、逆転負けで優勝を逃し、敗戦の瞬間には、試合会場内で、ショック死と自殺で命を落とす人が続出し、後に「マラカナンの悲劇」と呼ばれる。2016年8月には、リオデジャネイロオリンピック(第31回オリンピック競技大会)の開会式が開催された、世界最大規模のサッカー・スタジアム、エスタジオ・ド・マラカナン(正式名称はマリオ・フィーリョスタジアム)は以前、20万名もの収容人員を誇っていたが、1992年ブラジル全国選手権決勝に発生した、スタンド落下事故を機に大幅に削減され、現在は、全席椅子席で収容人員約80,000名となっている。この日のエスタジオ・ド・マラカナンには、199,854名の観客が集まり、この試合でブラジル代表は、初めて白のホームユニフォームを着て挑む。「マラカナンの悲劇」を受け、ブラジル代表は、ユニフォームを黄色(カナリア色)に変更し、白いユニフォームの着用を避け続けることになる。
1951年 - ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党支配下のドイツ国)のベルギー侵攻時に、政府と袂を分かち、単独降伏した選択への批判にさらされていたレオポルド3世がベルギー国王を退位し、長男のボードゥアン1世が即位する。
1951年 - アメリカの作家、J・D・サリンジャー作の長編小説『ライ麦畑でつかまえて』が発刊される。『ライ麦畑でつかまえて』は、第二次世界大戦後間もなくのアメリカを舞台に、主人公のホールデン・コールフィールドが、3校目に当たるボーディングスクールを成績不振で退学させられたことをきっかけに寮を飛出し、実家に帰るまで、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨークを放浪する3日間の話である。自身の落ちこぼれ意識や疎外感に苛まれる主人公が、妹に問詰められて語った夢、「自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子ども達が、気付かずに崖っぷちから落ちそうになった時に、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい...」が作品の主題となっている。このクライマックスシーンを導くために、主人公の彷徨のストーリーが積重ねられている。全世界の若者に与えた影響は計り知れず、発表以来60年以上経った現在でも版を重ね、累計発行部数は、全世界で6,000万部、アメリカで1,500万部を超えているが、作者のJ・D・サリンジャーは隠遁生活を送り、映画化等の申し出は全て断っている。
1953年 - 日本におけるファッションモデルの先駆けの1人とも言われる伊東絹子(当時19歳)が、アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州南部にある港湾都市ロングビーチで行なわれた第2回ミス・ユニバース世界大会に、日本代表として出場して3位に入賞する。伊東絹子は頭が身長の8分の1という、いわゆる「八頭身」がもてはやされ、第二次世界大戦での敗戦から8年にして日本女性の体形が国際水準に近付いた、と話題になり、その体形に因んだ『八頭身美人』が流行語となる。
1957年 - アメリカ海兵隊のテストパイロット、ジョン・ハーシェル・グレンが、チャンス・ヴォートF8Uクルセイダー戦闘機により、初の超音速によるアメリカ大陸横断を実施。3時間23分でアメリカ合衆国西部、カリフォルニア州ロサンゼルスからアメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨークまでを飛行する。ジョン・ハーシェル・グレンはその時、生まれ故郷の上空を超音速で飛行し、ソニック・ブーム(主に、戦闘機等の超音速飛行により発生する衝撃波が生む、轟く様な大音響)により、故郷の人々を驚かせている。また、1958年からは宇宙飛行士として、アメリカ航空宇宙局(NASA)のマーキュリー計画(アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画)に従事。1962年のマーキュリー6号(フレンドシップ7)により、アメリカ初の地球周回軌道を飛行した宇宙飛行士となる。