7月11日 記念日 その6 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

セブン-イレブンの日(続き)。
セブン-イレブンは、日本のコンビニエンスストアチェーンの草分け的な存在で、2019(平成31)年3月末時点で全国20,904店舗と、日本で最大の店舗数を持つ。また、大手コンビニエンスストアチェーンの中で、1店舗当たりの販売額が最大である。さらに、販促施策の一環として、各メーカーと協力して「セブン-イレブン限定商品」の販売や、新製品の先行販売を行なうこともある。ドミナント戦略と呼ばれる「特定の地域へ集中的に出店する」ことにより、物流、広告、店舗指導、その他で効率向上を狙った戦略を基に店舗展開を行なっているため、店舗数は日本一であるものの(特に2000年代初頭までは)、店舗数に対し未出店の地域がかなり多く、そのために三大都市圏の1つである名古屋ですら、21世紀に入るまで出店は無く(愛知県への初出店は2002[平成14]年7月12日)、大阪への出店も1991(平成3)年3月と比較的遅かった。一方で、2000年代後半以降(特に、北陸地区への展開が開始された2009[平成21]年以降)は、都市部における店舗数の飽和等もあり、未出店地域への展開も積極的に行なわれている。実際に、中京地区への出店前の2001(平成13)年6月時点で18県、北陸地区への出店前の2009(平成21)年1月時点で13県あった未出店地域(都道府県)は、2015(平成27)年10月時点で沖縄県のみとなった。沖縄県については、2017(平成29)年6月9日、2019年度を目処に出店を開始するという公式発表が行なわれ、出店に向けて2017(平成29)年中には、沖縄県内に当社子会社の現地法人を設置することも発表された。2019(平成31)年4月12日、沖縄県内で14店舗の出店計画が明らかになった。2019(令和元)年7月11日、セブン-イレブン・沖縄は、沖縄県内へ合計14店で初出店し、ローソン(1997[平成9]年)、ファミリーマート(2006[平成18]年)に次ぐ、47都道府県全てに出店するコンビニエンスストアとなった。2014(平成26)年からは、西日本旅客鉄道(JR西日本)グループとの提携により、西日本旅客鉄道(JR西日本)主要駅構内の売店(キヨスク)を「セブン-イレブン Kiosk」に、主要駅構内のコンビニ型店舗(ハート・イン及びデイリーイン等)を「セブン-イレブン Heart・in」にそれぞれ置換えることとなり、それによる約500店舗のリニューアルが、5年かけて順次進められている。また、2014(平成26)年3月より、これまでローソンやファミリーマートと比較して弱いとされてきた西日本での地盤を強化するため「西日本プロジェクト」を立上げ、一部の商品開発を大阪で行なっている。西日本旅客鉄道(JR西日本)グループとの提携も、こうした西日本での地盤強化の一環とされる。
ラーメンの日。
2007(平成19)年に設立された、東京都中央区日本橋本町に本部を置く、ラーメン産業の振興と発展を目的とした業界団体、社団法人日本ラーメン協会(現在は、一般社団法人となっている)が制定。ラーメン産業の振興・発展と共に、日本独自のラーメン文化を支えることが目的。日付は、7月11日の「7」と「11」の、「7」をレンゲに、「11」を箸に見立てたことと、ラーメンを最初に食べた人物とされる水戸黄門(水戸徳川家、常陸国水戸藩第2代藩主徳川光圀)の誕生日、1628(寛永5)年7月11日(新暦)から。ラーメン産業の振興・発展と共に、日本独自のラーメン文化を支えることが目的。徳川光圀は学者肌で、非常に好奇心が強いことで知られている。中国明朝から亡命してきた儒学者、朱舜水に学んでおり、外国の文化も積極的に取入れていた。その中に中華麺も含まれていたとされることから、徳川光圀は、日本で最初にラーメンを食べた人物と言われている。茨城県水戸市で販売されているご当地ラーメンの1つに「水戸藩らーめん」があるが、これは、徳川光圀が食べたとされる、最初のラーメンを再現した料理である。麺にレンコン粉を練り込むのと、「五辛」(ニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ショウガ)という薬味を添えるのが特徴である。「水戸藩らーめん」を含むラーメンでは、スープの出汁や具に鶏や豚等の肉類が使われるが、徳川光圀は肉食が忌避されていた当時に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が制定した「生類憐れみの令」(犬、猫、鳥、魚類、貝類、虫類等にまで及んだ複数のお触れの総称)も無視して、肉類を食べていたと伝えられている。常陸国水戸藩初代藩主徳川頼房の三男で、江戸幕府初代種軍徳川家康の孫に当たる徳川光圀は、同じ徳川家康の孫に当たる江戸幕府第3代将軍徳川家光の四男、徳川綱吉が江戸幕府第5代将軍に就任した1680(延宝8)年には、既に常陸国水戸藩(水戸徳川家)第2代藩主として20年近く君臨しており、徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には、白髭と頭巾姿で諸国を行脚して、お上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は、講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には、映画やテレビドラマ等の題材とされた。後に歴史書『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、その編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話等から、諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の徳川光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総等しか訪れたことがなく、概ね現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。ラーメンは、中華麺とスープを主とし、多くの場合、様々な具(チャーシュー・メンマ・味付け玉子・刻み葱・海苔等)を組合わせた麺料理である。ダシ、タレ、香味油の3要素から成るスープ料理としての側面も大きい。漢字表記は、拉麺、老麺、又は柳麺。別名は、中華そば、及び支那そば、南京そば等である。日本では、明治時代に開国された港に出現した中国人街(南京街)に中華料理店が開店し、大正時代頃から各地に広まっていった。日本風に仕立てられて、日本独自の発達をし、現在では、カレーライスと並んで「日本人の国民食」と呼ばれる程の人気の食べ物となり、中華人民共和国や中華民国では、日式拉麺(日式拉麵/日式拉面)、又は日本拉麺(日本拉麵/日本拉面)と呼ばれている。1910(明治43)年、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に初めて、日本人経営者尾崎貫一が横浜中華街から招いた中国人料理人12名を雇って、日本人向けの中華料理店「来々軒」を開店し、大人気となった。その主力メニューは、当時は南京そば・支那そば等と呼ばれたラーメンであった。この店の成功を受けて、日本に続々と庶民的な中華料理店が開店し、ラーメンは、餃子やシュウマイ等と共に、定番メニューとして広まっていった。第二次世界大戦後は、中国からの引揚者によるラーメン屋台も多く出現した。約100年の歴史の中で、さまざまなアレンジが加えられていき、中国やベトナム等のアジアの麺料理とは異質な、日本独特の麺料理に発展・変化している。太平洋中央部の洋上に位置するハワイ発祥の、ラーメンによく似た麺料理がサイミンで、サイミンの起源は、20世紀初頭のプランテーション(大規模工場生産の方式を取入れ、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、単一作物を大量に栽培する大規模農園)時代に、外国人移民、特に、日本人労働者達の間で、手軽な軽食として発展してきたことは確かである。中華麺そのものは、中国人移民が伝えたものであるが、その後、日本を始めとする他の国々の食文化や嗜好が影響し合って、現在の形になったものと考えられている。語源についても全く不明で、中国語説、日本語説、琉球語説、ハワイ語説等、さまざまであるが、現在では、ハワイで発生したピジン言語(現地人と貿易商人等の外国語を話す人々との間で、異言語間の意思疎通のため、互換性のある代替単語で、自然に作られた接触言語)の1つとして分類されている。現在のサイミンのスタイルは、日本人、及びその子孫である日系人の手によって確立され、サイミン・スタンドと呼ばれる専門店の大半は、現在も日系人によって運営されている。