7月6日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

零戦の日/ゼロ戦の日。
1939(昭和14)年7月6日、零式艦上戦闘機(零戦)の試作機が試験飛行を開始した。零式艦上戦闘機は、第二次世界大戦期における日本海軍の主力艦上戦闘機である。「ゼロ戦」の略称で知られている。試作名称は十二試艦上戦闘機。連合軍側のコードネームは「ZEKE(ジーク)」であったが、支那事変(日中戦争)から第二次世界大戦初期にかけて、2,200kmに達する長大な航続距離や20mm機関砲2門の重武装、優れた格闘性能を生かして、米英の戦闘機と優勢に戦い、米英のパイロットからも「ゼロファイター」と呼ばれた。しかし、第二次世界大戦中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立や、アメリカ海軍と海兵隊が使用した戦闘機チャンス・ヴォートF4Uコルセアや、アメリカ海軍の主力艦上戦闘機グラマンF6Fヘルキャット等、新鋭戦闘機の大量投入で劣勢となったが、後継機の開発の遅れによって、第二次世界大戦終戦まで、日本海軍航空隊の主力戦闘機として運用された。また、用途も拡大して、戦闘爆撃機や特攻機(生還の見込みが通常よりも低い決死の攻撃、若しくは戦死を前提とする必死の攻撃を行なう攻撃、特別攻撃[特攻]を行なう航空機)としても使われた。開発元は日本最大の機械メーカー、三菱重工業である。三菱重工業に加え、航空機・航空エンジンメーカーの中島飛行機(エンジンや機体の開発を独自に行なう能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであったが、1945[昭和20]年に解散)でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島飛行機製である。生産数は、日本の戦闘機では最多の約10,000機を数える。当時の日本の軍用機は、採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっていた。従って、零戦の「零式」との名称は、制式採用された1940(昭和15)年が皇紀2600年に当たり、その下2桁が「00」であるから、ということになる。連合軍が零戦に付けたコードネーム、「ZEKE(ジーク)」に対し、アメリカ軍側の将兵も「ゼロファイター(Zero Fighter)」や「ゼロゼロ(Zero Zero)」と呼ぶことが多かった。零戦は、高い運動性能を持ち、他国の戦闘機よりも横、縦共に旋回性能がズームを除いて格段に優れていた。さらに零戦は、操縦が極めて容易であり、運動性がよく、すわりもよかった。そのため、空戦に強く、射撃命中精度が高く、戦闘機搭乗員の養成、戦力向上が比較的短時間に行なえた。零戦は、上昇力や航続力を満たすため、軽量化に拘っている。その軽量化は極端なものであったが、計算され、逆に材質に強度を与えていた。その軽量化による高い余剰馬力のため、時速500km(約270kt)を超える最高速度を持つことも零戦の特徴である。艦隊防空を主任務とする艦上戦闘機(艦戦)は、常に艦船上空に滞空させて対空監視(戦闘哨戒)を行なう必要がある。零戦が開発された1936(昭和11)年当時、レーダーは実用段階まで至っていない。艦戦が運用される航空母艦(空母)は、陸上基地とは異なり、早期警戒のための対空見張り網を構築できないためである。このような運用を前提とする場合、滞空時間が長ければ長い程、交代機が故障で上がれない等の突発的な事態において、防空網に穴が空きにくいという利点がある。零戦は、第二次世界大戦初期において、長航続距離を以って遠隔地まで爆撃機を援護し、同時侵攻することができた、数少ない単発単座戦闘機となった。陸軍の一式戦闘機隼も長航続距離を持つが、実戦では、零戦の方が長距離の作戦に投入されることが多かった。また、長大な航続力は、作戦の幅を広げ戦術面での優位をもたらす。実際、開戦時のフィリピン攻略戦等は、当時の常識からすると、航空母艦(空母)なしでは実施不可能な距離があったが、零戦は遠距離に配備された基地航空隊だけで作戦を完遂した。2016(平成28)年1月27日、零戦を日本で動態保存(動く状態で保存)すること等を目的とした「零戦里帰り プロジェクト」を運営するゼロエンタープライズ・ジャパンが、零戦の復元した機体を海上自衛隊の鹿屋航空基地で試験飛行させた。第二次世界大戦後の日本国内で、日本人所有の零戦が飛行するのは初となる。零戦の設計者として有名な航空技術者の堀越二郎は、1937(昭和12)年から十二試艦上戦闘機(後の零戦)の設計を行なった。海軍からのあまりに高い性能要求に悩み、会議において堀越二郎は、「格闘性能、航続力、速度の内で優先すべきものを1つ挙げてほしい」と要求するが、「どれも基準を満たしてもらわなければ困るが、敢えて挙げるなら格闘性能、そのための他の若干の犠牲は仕方ない」という意見と、「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘性能は搭乗員の腕で補う」という意見が対立し、両方正論で平行したため、堀越二郎は、自分が両方の期待に応えようと決めた。零戦の防弾性能について堀越二郎は、戦闘機には優先順位があり、防弾がなかったのは当然とし、後の零戦に対する防弾装備は、未熟者が増えたせいで不相応なものであった、と回想する。なお、第二次世界大戦後、堀越二郎は、航空機の設計・製造・運用・整備等に関する工学、航空工学の権威で、航空機設計者の木村秀政らと共に、高い信頼性を持つ航空機として知られる、日本初の国産旅客機である日本航空機製造(NAMC)YS-11の設計に参加した。その堀越二郎をモデルにした作品の1つとして、長編アニメーション映画の制作を主力事業としている制作会社、スタジオジブリの長編アニメーション映画『風立ちぬ』がある。『風立ちぬ』は、アニメーター・漫画家・映画監督、宮崎駿の漫画『風立ちぬ』を原作としたアニメーション映画で、2013(平成25)年7月20日に公開された。実在の人物である堀越二郎をモデルに、その半生を完全に創作して描いた作品であるが、昭和期前半に活躍した作家、堀辰雄の中編小説『風立ちぬ』(作者、堀辰雄本人の体験を元に執筆された、堀辰雄の代表的作品とされる)からの着想も盛込まれている。原作・脚本・監督は宮崎駿で、堀越二郎の声は、SFアニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』等で知られるアニメーター・アニメーション監督の庵野秀明が、声優として起用された。『風立ちぬ』の「風」というのは、「爽やかに吹くようなものではなく、原発が爆発した後に、轟々と木を揺らすような恐ろしい風であり、だから生きようとしなければならない」と、宮崎駿は後に話している。キャッチコピーは「生きねば。」で、宮崎駿が長編アニメーション映画の監督を務めるのは、2008(平成20)年の長編アニメーション映画『崖の上のポニョ』以来となる。日本公開では、全国454スクリーンで公開され、2013(平成25)年7月20日と7月21日の2日間で、興行収入9億6,088万円、観客動員74万7,451名となり、映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第1位となった。堀越二郎の長男は、この映画を高く評価している。また、「父は必ずしも零戦は好きではなかった」と指摘し、その理由として、「設計時の要求水準の高さ、テストパイロットの殉職、神風特別攻撃隊での使用等、二郎にとって零式艦上戦闘機には、辛い思い出が多かった」ことを挙げている。なお、神風特別攻撃隊は、第二次世界大戦対米英戦で、日本海軍によって編成された、爆装体当たり攻撃隊と直接掩護、並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊であり、攻撃目標は艦船であった。略称は、「神風」「神風特攻隊」等で、「体当たり攻撃」とも呼称される特別攻撃(特攻)全般を、「神風」と呼称することもある。