7月2日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0626年 - 中国唐朝の初代皇帝、高祖李淵の次男、李世民が宮中に乱入し、長兄の皇太子李建成と弟李元吉を暗殺して実権を掌握する(玄武門の変)。高祖李淵は李世民に譲位させられ、中国唐朝の第2代皇帝に即位した李世民(太宗)は、残存の群雄勢力を一掃して、中国唐朝の天下統一を果たす。
1582年 - 山崎の戦い(山崎合戦)。明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君、織田信長を襲撃した事件、本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引返してきた羽柴秀吉軍が、摂津国と山城国の境に位置する山崎(現在の大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町に所在)で、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突する。羽柴秀吉軍(戦力は約40,000とされる)が明智光秀軍(戦力は約16,000とされる)を壊走させ、明智光秀は敗走中、雑兵に刺殺される。なお、山崎の近くにある山で、戦略上の要地として争奪の舞台となり、山城も築かれた天王山での戦闘があったことが、具体的に記された良質な一次資料は確認されず、かつて広く使われた「天王山の戦い」は現在では、「山崎の戦い(山崎合戦)」と呼ばれている。羽柴秀吉は、この織田信長の弔い合戦に勝利した結果、かつて織田信長が本拠としていた尾張国(現在の愛知県西部)清洲城(現在の愛知県清須市に所在する、尾張国の中心部に位置し、交通の要所として重視された城)で行なわれた、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の織田家重臣4名が、織田氏の継嗣問題、及び領地再分配に関する会議、清洲会議を経て,、織田信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。
1644年 - イングランド内戦: マーストン・ムーアの戦い。イングランド北部にあるヨーク近郊のマーストン・ムーアで、議会派のオリバー・クロムウェル率いる鉄騎隊が、イングランドの軍人で王党派軍の指揮官、初代カンバーランド公ルパートの騎兵を潰走させて武名を上げる。
1698年 - イギリスの機械技術者、トーマス・セイヴァリが、鉱山から排水する初期の蒸気機関の特許を取得。トーマス・セイヴァリが「鉱夫の友」と命名したこのポンプは、ピストンを用いず蒸気の圧力による排水を行ない、蒸気の凝集による負圧による揚水を繰返すものである。この装置自体は、まだ技術的に未熟なものであり、常に誤作動や爆発の危険を抱えていたという。しかし、トーマス・セイヴァリがこれによって取得した特許の範囲は「火力によって揚水する装置」であり、極めて広いものであった為、後の1712年にイギリスの機械技術者、トーマス・ニューコメンが、より先進的な蒸気機関を開発した際、トーマス・セイヴァリの特許を使用しなければならないことになる。
1757年 - ニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズが、イギリスの第6代首相に就任。
1777年 - アメリカ合衆国北東部、ニューイングランド地方の内陸に位置するバーモント州が、アメリカ合衆国で初めて奴隷制を廃止する。
1839年 - アミスタッド号事件。スペイン籍の商船『ラ・アミスタッド号』に収容されていたアフリカ人奴隷53名が、南北アメリカ大陸の間、カリブ海の大アンティル諸島に位置するキューバの沖で反乱を起こし、船を乗っ取る。その後、アフリカ人奴隷達は、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ロングアイランド近辺でアメリカ海軍により逮捕、勾留される。この事件に関連して、アメリカ合衆国で行なわれた裁判は大きく注目を集め、奴隷廃止運動を前進させる結果をもたらすことになる。
1860年 - ロシア帝国の輸送船『マンジュール号』が金角湾(ロシア東部、沿海地方の最大都市であるウラジオストクにある入り江)に到達、湾の北岸に砦の建設を開始する。これが、ウラジオストク開基の日とされる。天然の良港で、ロシア海軍太平洋艦隊の基地が置かれる軍港都市、ウラジオストクは、ソビエト連邦崩壊後、日本等からの中古車輸入が盛んとなり、極東における一大市場となっており、現在は、自動車産業を積極的に誘致している。美しい駅舎を構えるウラジオストク駅は、ロシア連邦の国内南部を東西に横断する鉄道で、その全長は9,297kmとなり、世界一長い鉄道である、シベリア鉄道の東方の始発駅である。
1871年 - イタリア王国による教皇領の占領後初めて、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がローマに入城。首都をフィレンツェからローマに移す。
1881年 - ガーフィールド大統領暗殺事件:アメリカ人弁護士のチャールズ・J・ギトーが、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で、アメリカ合衆国大統領ジェームス・ガーフィールドを銃撃し、重傷を負わせる。ジェームス・ガーフィールドは感染症で病状が悪化し、9月19日に死去する。
1883年 - 日本の官報が創刊される。官報は、日本国の機関紙である。法律、政令、条約等の公布を始めとして、国や特殊法人等の諸報告や資料を公表する「国の広報紙」「国民の公告紙」としての使命を持つ。当時、参議(明治政府で集団制の政府首班として位置付けられる役職)であった山縣有朋の建議により、初めて発行されている。
1900年 - ドイツ南部にあるフリードリッヒシャフェンで、飛行船『ツェッペリン号』が初飛行。『ツェッペリン号』は、ドイツの陸軍軍人であったフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵(通称Z伯)が開発した硬式飛行船である。フェルディナント・フォン・ツェッペリンの設計した船体は非常に成功し、その結果「ツェッペリン」という語は、慣用的にあらゆる硬式飛行船のことを指すようになる。硬式飛行船は外殻の支持構造を持つ飛行船であり、ガス圧で外形を維持する軟式飛行船と区別される。「ツェッペリン飛行船」は、アルミニウム等の軽金属の外皮を被せた枠組構造内に、空気より軽い水素ガスを詰めた複数の気嚢を収容している。乗客や乗員の乗る居住空間(ゴンドラ)が、枠組構造の底部に取付けられている。動力源は、数基のレシプロエンジンである。硬式飛行船の設計が優れている点は、浮揚用水素ガス袋と、船体構造とを分離した点にある。従来の軟式飛行船は、ガス袋そのものを船体としていたため、変形し易くなり、高速飛行は不可能であったが、硬式飛行船は、アルミニウム合金の多角形横材と縦通材で骨格を作り、張線で補強し、その上へ羽布(麻、又は綿布)を張って流線形の船体を構成し、ガス袋を横材間に収めている。このような構造を持つ硬式飛行船は、船体の外形を保持することができ、飛行機よりは遅いものの、駆逐艦には追尾できない高速を発揮できる。そうして、飛行船は、実用的な空の輸送手段となる。硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことと言える。飛行機と違って、「ツェッペリン飛行船」の浮力は、寸法の3乗である体積に比例し、また、構造重量は寸法の3乗以下に留めることができるため、大型である程、搭載貨物の増大が可能となる。
1916年 - 第1回サッカー南米選手権が開催される。世界で最も古いナショナルチームによるサッカーの大陸選手権大会、サッカー南米選手権は1975年大会より、CONMEBOLコパ・アメリカとなる。第1回大会には、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイ・チリの4ヶ国が参加し、アルゼンチンで開催されて、ウルグアイが優勝する。
1929年 - 田中義一内閣が総辞職。同日、濱口雄幸が第27代内閣総理大臣に就任し、濱口内閣が発足。
1931年 - 万宝山事件。中国東北部にある長春北西の万宝山で、入植中の朝鮮人と、それに反発する現地中国人農民との、水路に関する小競合いが中国の警察を動かし、それに対抗して動いた、日本の警察と中国人農民が衝突する。
1937年 - 世界一周飛行中の女性飛行士アメリア・イアハートが、南太平洋で消息を絶つ。その後、アメリカ海軍と日本海軍により大規模な捜索が行なわれたが、機体の残骸や遺体が発見されなかったことから、アメリア・イアハートの失踪が「ミステリー」として取上げられることとなる。アメリア・イアハートは、アメリカでは今も代表的国民ヒロインの1人であり、さらに、謎めいた最期のために、未だにSF・フィクションの世界では、アメリア・イアハートの登場するものが少なくない。