6月30日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

氷室開き。
藩政時代、加賀国/能登国/越中国加賀藩藩主が徳川将軍家に献上するため、天然の氷雪を氷室(ひむろ)と呼ばれる小屋に貯蔵し、6月の末に江戸に届けていた。この時期が選ばれたのは、禁中行事にある氷室の節句(旧暦6月1日、新暦の7月1日)に間に合うように、との思いからであったという。何ヶ月も氷を貯蔵する努力、さらに、加賀国から江戸への長距離を、なるべく溶かすことなく運ぶ工夫(むしろと笹の葉に幾重にも氷雪を包んだと言われる)は並大抵のものではなかったと推測される。6月30日に行なわれる氷室開きは、今や金沢の夏の風物詩として定着しており、大勢の観光客が訪れる。藩政時代に則り、衣装・方式も当時のものを再現している。運び出された氷は、最初のものは献上氷室雪として、一部を薬師寺(石川県金沢市湯涌に所在)へ奉納し、その残りはお茶用の湯に足され、観光客に振舞われる。薬師寺のある湯涌温泉は、金沢市東南部の中山間地域(平地の周辺部から山間地に至る、纏まった平坦な耕地の少ない地域)に位置しており、金沢の奥座敷ともいうべき場所にある。氷や雪を貯蔵することで冷温貯蔵庫として機能する専用施設のことである氷室は、古代より世界各地で利用されてきた蓄熱施設であり、気候により氷雪が溶けて無くなってしまう高温の時期がある地域や、1年を通して氷雪が存在しない地域で利用され続けている。掘った穴と、敷詰め、包み込むための藁だけでできたものや、氷雪の上に断熱材(藁、断熱シート等)をかぶせるだけのものもある。このようなタイプは、日本では雪蔵(ゆきくら、ゆきぐら)、或いは雪中貯蔵庫等と呼ばれ、氷室の一種である。雪蔵は、酒の貯蔵によく用いられている。恒久的使用に耐える石造ドームで構築されたアイスハウスまで、様々な様式があるが、いずれにしても、伝統的土木技術によって建造、或いは設置されるものであり、冷蔵庫(機械式冷温貯蔵庫)が発明される以前は、現在よりも一般的な冷温施設であった。施設の用途は、生鮮食品を含む食品、その他の保存の他、氷雪そのものが、納涼や医療に活用されることも珍しくなかった。日本においても、製氷する技術が無かった時代には、冬場にできた天然の氷を、溶けないように保管する必要があった。正確な記録は残されていないが、洞窟や地面に掘った穴に、茅葺等の小屋を建てて覆い、保冷したとされる。氷室の中は、地下水の気化熱(液体を気体に変化させるために必要な熱)によって外気より冷涼であるため、涼しい山中等では、この方法で夏まで氷を保存することができる。このように、天然のものを保管するしかない時代、夏場の氷は貴重品であり、長らく朝廷や将軍家等、一部の権力者のものであった。江戸時代には、土蔵造りの氷室が江戸市中にも作られるようになり、庶民に夏場の氷が供給されるようになった。江戸は、玉川上水(現在の東京都羽村市にある羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の東京都新宿区四谷付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていて、「水番所」以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43kmは全て露天掘りである)より水道水が飲み水として供給されていたが、夏場にはぬるくなってしまう。そのため、氷で冷やした水を売る「水屋」という商売(棒手売の一種である「水売り」を含む)が誕生した。但し、川から汲んだ水に氷を入れたものであったため、高齢者等の場合は、衛生的不備がたたって腹をこわすことがよくあり、「年寄りの冷や水」という慣用句が生まれた。
うちエコ!ごはんの日。
家庭の中の二酸化炭素(CO2)(気体は炭酸ガスと呼ばれる)の大きな部分を占める食から地球環境を考える、「うちエコ!ごはん」の普及を目的として、東京都豊島区要町に本部事務局を置く「うちエコ!ごはん事務局」が、2009(平成21)年に制定。日付は、毎年、環境省や地方自治体、企業等によって環境セミナーや展示会等が各地で開かれている6月の1ヶ月間、環境月間の最終日であり、かつては氷室開きの日(藩政時代に、加賀藩から将軍家に氷を献上するために氷室を開いた日)であった6月30日とされた。氷が溶けないように、地球温暖化をストップさせよう、との願いが込められている。エコに繋がるレシピを発表し合ったり、食事を作る時(後片付けをする時)のエコなやり方を教え合ったりする他、料理教室や食育活動、参加型イベント等を行なっている。氷室とは、天然の雪や氷を夏まで貯蔵しておくための専用施設のことで、日本において、製氷する技術が無かった時代には、冬にできた雪や氷を、溶けないように保管する必要があった。1月の最終日曜日に、氷室小屋に雪が詰められる伝統行事の「氷室の仕込み」(雪詰め)が行なわれ、6月30日に雪を取出す「氷室開き」が行なわれた。加賀藩主前田氏の居城、金沢城が所在する、石川県金沢市とその周辺では、7月1日に氷を模したとされる氷室饅頭を食べ、1年の健康を願う習慣が残っている。 
集団疎開の日。
1944(昭和19)年6月30日、東条英機内閣は、都市の学童を地方へ学校単位で集団疎開させることを、「学童疎開促進要項」として閣議決定した。同1944(昭和19)年8月4日、最初の集団疎開児童が東京を発ち、東京都板橋区上板橋第三国民学校(現在の練馬区立旭丘小学校)の児童が群馬県へ疎開する等した。9月25日には、全国で41万6,946名の子ども達が集団疎開していたという。集団疎開は、第二次世界大戦末期に、攻撃目標となり易い都市に住む学童、老人、女性、又は直接攻撃目標となるような産業等を分散させ、田舎に避難させるという政策を指す言葉として一般化した。「避難」や「退避」という言葉を使用しなかった理由は、撤退・退却を「転進」と表現したのと同様、「軍事作戦の1つであり決して逃げるのではない」と糊塗する意図があったとされ、それ故、当時の新聞紙上等においては、外国で行なわれた(外国政府による、外国人の)疎開について、「避難」「撤去」「疎散」等と表現している。今日の日本で、単に「疎開」と言う場合の多くが、この学童疎開を指す。日本において政府は、「縁故者への疎開」を奨励したが、学校毎の集団疎開(学校疎開)も多く行なわれた。日本の都市部では、自営業者の世帯を中心に、労働力の中心となるべき成人男性が戦地に赴いている間、子どもは重要な労働力として家計の助けとなっている世帯も多く、疎開させたくてもできない家庭があった。集団疎開に際しては、保護者から疎開免除の嘆願書が提出された例も存在している。集団疎開児の大部分は、1945(昭和20)年11月中までに疎開先より引揚げた。沖縄県から九州に集団疎開した児童の引揚げは1946(昭和21)年10月となり、光明国民学校(現在の東京都世田谷区にある公立特別支援学校、東京都立光明特別支援学校で、肢体不自由者のための教育機関としては、日本最古の歴史を有する)が長野県から引揚げたのは、1949(昭和24)年5月28日であった。空襲で家族全部が死亡して戦災孤児となり、引続き疎開先に留まった子どもも少なくなかった。なお、第二次世界大戦中において、本土が大きな被害を受けたドイツやイギリス、ソビエト連邦等、多くの国でも、政府の主導による疎開が行なわれた他、本土が戦場より遠く、日本軍によるアメリカ本土空襲やアメリカ本土砲撃が行なわれたものの、結果的に民間人に多くの被害を出すことが無かったアメリカにおいても、日本軍による大規模な空襲や上陸を恐れて、第二次世界大戦対米英戦開戦後の1941(昭和16)年から1942(昭和17)年にかけて、疎開が政府により本格的に計画された。