6月29日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1028年 - 平忠常の乱。関東に独立勢力圏を打立てようとした平将門の叔父、平良文の子孫に当たる関東の有力な豪族・武将、平忠常が、房総3ヶ国(上総国、下総国、安房国、現在の千葉県等に相当)で乱を起こす。朝廷は、武勇に優れた河内源氏(河内国[現在の大阪府の東部と南部]に根拠地を置いた清和源氏の一流)の祖、源頼信を追討使として派遣する。源頼信は、この平忠常の乱を平定し、坂東(関東地方)の武士達は、河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築く。
1194年 - 北ヨーロッパのスカンディナビア半島西岸に位置するノルウェー王国国王、スヴェレ・シグルツソンが戴冠。なお、戴冠式とは、国王や皇帝が即位の後、公式に王冠(帝冠)を聖職者等から受け、王位(帝位)への就任を宣明する儀式である。
1575年 - 長篠の戦い。三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠に所在)を巡り、織田信長・徳川家康連合軍(兵力約38,000)と武田勝頼軍(兵力約15,000)とが激突。敗北した武田勝頼軍は甚大な被害を受け、織田信長は「天下人」として台頭するきっかけを掴み、武田氏は後の1582年に滅亡する。通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意、さらに、新戦法の三段撃ちを実行した織田信長・徳川家康連合軍を前に、当時最強と呼ばれた武田勝頼軍の騎馬隊は成すすべもなく殲滅させられた、とされるが、そもそも兵力に約2.5倍以上の差があった上、経過・勝因については、様々な論点において異論が存在する。織田信長・徳川家康連合軍には、主立った武将に戦死者が見られないのに対し、『信長公記』(織田信長旧臣の太田牛一が著者とされる織田信長の一代記)に記載される武田勝頼軍の戦死者は、譜代家老の山県昌景、馬場信春、内藤昌豊を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉重継等、重臣や指揮官にも及んでいる。
1613年 - イギリスの首都ロンドンにある劇場『グローブ座』が焼失。但し、翌年には再建されている。『グローブ座』は、エリザベス朝(イングランド王国のテューダー朝の内、特にエリザベス1世の治世期間を指す)を代表する劇場の1つで、イングランドの劇作家・詩人、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲が、数多く初演された劇場として、演劇史に名を残している。二代目の『グローブ座』は同じ場所に1614年6月に再建されたが、1642年9月、清教徒革命(1640年から1660年にかけて、イングランドで起こった革命で、チャールズ1世の専制強化を巡り、宮廷と議会の間で内乱となり、ピューリタン[清教徒と呼ばれる、16世紀後半以後、イギリス国教会の信仰と慣行に反対し、徹底した宗教改革を主張したプロテスタント諸教派の総称]を中心とする議会派[地方派]が王を処刑し、共和制を施行した後、イングランドの軍人・政治家、オリバー・クロムウェルの革命独裁を経て、その死後に王政が復活する)の影響で閉鎖されるが、後の1997年には、少し離れた場所に復元されている。
1607年 - 朝鮮通信使(李氏朝鮮[朝鮮民族国家の最後の王朝]より日本へ派遣された外交使節団)が初めて江戸を訪問し、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠と会見する。
1659年 - コノトプの戦いが終結する。東ヨーロッパに位置するウクライナ中部にあるコノトプ郊外での戦闘で、ロシア・ツァーリ国(後のロシア帝国、現在のロシア連邦の前身)軍が、ウクライナ・コサック(ウクライナや南ロシア等にあった軍事的共同体)軍に敗れる。
1689年 - 俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の1人とされる松尾芭蕉が、「おくのほそ道」の旅で、平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町中心部に所在)の奥州藤原氏3代の跡を訪ねる。
1797年 - ナポレオン・ボナパルト(後のフランス第一帝政皇帝ナポレオン1世)が、チザルピーナ共和国(イタリア北部に存在したフランスの衛星国)を建国。チザルピーナ共和国は、1805年にイタリア王国へ移行する。
1880年 - 南太平洋東部、ポリネシアにあるタヒチ島がフランスの領土となる。南太平洋有数のリゾート地として知られるタヒチ島は、火山性の山勝ちな島で、島の周囲をサンゴ礁が取巻き、火山性特有の黒い砂浜が多いことが特徴である。太平洋とカリブ海を結んでいる閘門式運河、パナマ運河の開通を睨み、太平洋の給炭地としてタヒチ島の重要性を再認識したフランスは、当時既に自国の法律に則った議会制を採用していたタヒチ島をフランスの正式な領土とし、タヒチ島はフランス領ポリネシアとなり、住民全てにフランス国籍が与えられることとなる。フランス領ポリネシアの政治は、フランス政府と領土政府が行なっている。フランス政府は、国土の防衛、移民、司法、高等教育、メディア、造幣を分担し、高等弁務官が現地代表を務める。地方行政、初等・中等教育、税金、外貨交換、物価等の分野を領土政府が分担している。フランスは、自国の領土に編入して以降、島を近代的なリゾート地として売出し、観光地として世界に名だたる場所へと変え、さらに、フランス政府は、核実験を島民に納得させるために様々なメリットを力説する。観光業による収入の増加と、核実験絡みによる経済援助や仕事を供給し、島民の台所を潤わせることである。しかし、同時にその代償として、核実験によって美しい珊瑚環礁を破壊し、島民のプライドを奪っていったと言える。首都パペーテと、その近郊のファアア、プナウィア、ピレエ地区に、行政機関、商業施設、学校、病院、飛行場、港等が集中している。他の島々から、仕事や学業のために人々が集まって来ている。自家用車の数は年々増えて、通勤通学時には交通渋滞が起こる。職種や求人も多く、共稼ぎが多く、女性の社会進出も目覚ましい。子弟の教育には、大学進学やフランスやオーストラリアへの留学も増えている。フランスのポスト印象派(色彩の視覚的効果をそのままに捉えようとする印象派の後に、フランスを中心として、主に1880年代から活躍した画家達)画家、ポール・ゴーギャンは、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出を図り、タヒチ島に渡り、首都パペーテから約45km離れたパペアリにアトリエを構え、自分で竹の小屋を建てる。そこでは、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっている、『イア・オラナ・マリア』等の作品を描いている。その後、一旦フランスに戻ったポール・ゴーギャンは、フランスの首都パリで孤立したこと等から、再びタヒチ島に向かい、その後の約6年間の殆どを、パペーテ周辺の画家コミュニティで暮らす。
1900年 - スウェーデンの化学者で、ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたアルフレッド・ノーベルによって創設された、アルフレッド・ノーベルの遺産管理とノーベル賞を主催する財団、ノーベル財団が設立される。
1913年 - 東南ヨーロッパに位置するバルカン半島の周辺国、セルビアやギリシャ等と、その隣国となるブルガリアとの間で、第二次バルカン戦争が勃発する。1912年にバルカン半島に属する諸国である、ブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロの間で結ばれたオスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)に対する同盟、バルカン同盟を締結した諸国は、同年にオスマン帝国に対し宣戦布告し、第一次バルカン戦争が勃発する。しかし、バルカン同盟は、第一次バルカン戦争による同盟国側の勝利後に、獲得した領土を巡り、同盟国同士が反目し、第二次バルカン戦争が勃発することとなる。これが、人類史上最初の世界大戦である第一次世界大戦を誘発する伏線となり、バルカン同盟は事実上崩壊する。
1928年 - 緊急勅令(大日本帝国憲法で認められた天皇の権能の1つで、天皇が法律に代るものとして発した命令)「治安維持法中改正ノ件(昭和3年6月29日勅令第129号)」により、「治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)」が改正される。その内容は、反国体の結社行為に死刑・無期刑を追加する等で、改正案が議会において審議未了となったものを、緊急勅令の形で強行改正されている。