6月17日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0362年 - ローマ皇帝ユリアヌス(フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス)が、キリスト教徒を教師・高官等の職から追放する。
1565年 - 永禄の変。大和国(現在の奈良県)の戦国大名、松永久秀の嫡男、松永久通と三好三人衆(畿内一円に大勢力を有していた戦国大名、三好氏の一族・重臣、三好長逸・三好政康・岩成友通の3名)が、室町幕府第13代将軍足利義輝の居城、「二条御所武衛陣の御構え」(現在の京都市中京区、京都市街の中に所在)を襲撃し、足利義輝を殺害する。畿内(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制国[7世紀後半からの日本国内の地方行政区]5ヶ国で、現在の奈良県の全域と、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部に相当する地域)、四国東方、淡路に勢力を展開し、安定した秩序を維持した三好長慶は、畿内の実力者として絶頂を極めたが、京都の支配は安定させられず、全国の戦国大名へ合戦の調停を行なったり、幕府の役職を与えたりする等、幕府権威の回復を図った室町幕府第13代将軍足利義輝と和睦し、足利義輝の臣下として、室町幕府政治機構に組込まれることになる。その後、三好長慶の有力な一族が相次いで死亡し、三好長慶自身も没して、三好家中の実権を、三好長慶の甥で、後継者の三好義継に代わって牛耳っていた、松永久秀と三好三人衆は、将軍家の直接統治に固執する足利義輝が邪魔な存在となり、実力による足利義輝の根本的排除、即ち、将軍殺害へと向かっていくこととなる。足利義輝の居城に押寄せた約1万の軍勢に対し、寡兵となった将軍方の応戦は激しく、足利義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷付いて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られ、殺害されている。なお、松永久秀は、事件の主導者の1人とする記述が従来多く見られるが、実際に事件に参加したのは松永久通であり、事件当時、松永久秀は大和国にいたため、関与はしていない。
1631年 - ムガル帝国(北インドのトルコ系イスラーム王朝)の第一皇妃ムムターズ・マハルが産褥(さんじょく)死。夫の皇帝シャー・ジャハーンは、ムムターズ・マハルのために、約22年かけてタージ・マハル(現在のインド北部アーグラにある総大理石の墓廟)を建てる。なお、産褥とは、妊娠、及び分娩を原因として発生した身体の変化が妊娠前の状態に戻るまでの期間で、その期間は女性の死亡率も高かったとされる。
1775年 - アメリカ独立戦争: バンカーヒルの戦い。
1789年 - フランス革命: 三部会(フランス国内の三つの身分[第一身分である聖職者、第二身分である貴族、第三身分である平民]の代表者が重要議題を議論する場として、中世から近世にかけて存在した身分制議会)から離脱した第三身分(平民)代表が、近代議会としての性格を有する「国民議会」の成立を宣言。
1857年 - 江戸以外の幕府直轄領(御料[幕僚・天領])の内、重要な場所に置かれ、その土地の政務を取扱った奉行、遠国奉行の中で、外国との交渉の窓口となっていた下田奉行と、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが、日米和親条約を修補する9ヶ条の下田協約を締結する。
1858年 - 伊東玄朴ら江戸の蘭方医が、上野にお玉ヶ池種痘所を設立。種痘所とは、天然痘の予防、及び治療を目的に設立された医療機関であり、お玉ヶ池種痘所は東京大学医学部の前身ともなっている。お玉ヶ池(現在の東京都千代田区岩本町に所在)にあった勘定奉行川路聖謨の邸内に創設されたものであるが、約半年で焼失する。
1864年 - 江戸幕府が神戸海軍操練所を開設。神戸海軍操練所は、軍艦奉行の勝海舟の建言により、幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠である。現在の神戸市中央区新港町周辺に所在する。土佐国土佐藩脱藩浪士や周防国/長門国長州藩に同情的な意見を持つ生徒が多かったこの操練所は、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして、翌1865年に閉鎖されている。塾頭は、土佐藩郷士(武士の待遇を受けていた農民)出身で、倒幕や明治維新に影響を与える等、重要な働きをした坂本龍馬であったとされ、後の日清戦争時に外務大臣となる陸奥宗光や、初代連合艦隊司令長官となった伊東祐亨らが塾生として名を連ねている。
1876年 - ブラックヒルズ戦争: ローズバッドの戦い。
1885年 - 自由の女神像が、フランスからアメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨークに届く。自由の女神像の正式名称は「世界を照らす自由」で、アメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人の募金によって贈呈されたものである。アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴であると共に、19世紀以来絶えることなく、世界各地からやって来る移民にとって新天地の象徴ともなっている。1984年には、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。
1885年 - 明治十八年の淀川洪水。6月上旬から2つの低気圧の影響により雨が降り続け、淀川(日本最大の湖、琵琶湖から流れ出る唯一の河川で、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む、滋賀県、京都府、及び大阪府を流れる淀川水系の本流)左岸にある支流の天野川(大阪府四條畷市と奈良県生駒市との境に発し、大阪府枚方市で淀川に合流する一級河川)が決壊、次いで、大阪府北東部の、京都府や奈良県との府県境に位置する枚方の三矢、伊加賀で、淀川本流の堤防が三十間(約182m)にも亘って決壊する。以後、淀川左岸の堤防は各所で決壊し、7月にかけて大阪府淀川流域に家屋流失約1,600戸、同損壊約15,000戸という甚大な被害が発生する。大阪市内では、大阪城から天王寺間の上町台地一帯を除く殆どの低地部が水害を受け、被災人口は約27万名とされる。また、天満橋・天神橋・難波橋の浪華三大橋も流され、八百八橋と謳われた大阪の橋は30余りが次々に流失し、市内の交通のほぼ全てが寸断される。この間、大川(大阪市内を流れる淀川の本流)の堤防をわざと決壊させ、そこからこの膨大な水を流してしまおうと、「わざと切れ」と呼ばれる、江戸時代から度々行なわれてきた方法を採ることとし、網島町(現在の大阪市都島区)にある大長寺(現在は、北に隣接している桜之宮公園の一部となっている都市公園、藤田邸跡公園)横の堤防を切る。これにより、当初は大川から逆に水が入ってくることもあったが、最終的に功を奏し、並行して行なわれていた堤防の修理の甲斐もあり、長い時間は掛かったが、ここから大半の水が出て行くこととなる。この後、淀川改修の誓願運動が巻起こり、1896年には、淀川改修費の予算が成立し、この年から淀川の改修工事が始められる。従来の淀川河口部は、大川・中津川・神崎川の3河川に分流して大阪湾に注いでいたが、ほぼ直線的に大阪湾へ向かう中津川流路を利用して1つの放水路に纏め、川の水を流すための毛馬洗堰を建設して、大川を堰から分流し(新淀川開削工事)、神崎川は一津屋樋門(堤防の中にコンクリートの水路を通し、そこにゲート設置する施設)より分流させて、現在の形とする。新淀川開削工事は1910年に完成。多数の住民が移転を余儀無くされたが、古来より続けられた淀川河口部の治水事業が完結する。
1892年 - スイスでブリエンツ・ロートホルン鉄道が開通する。ブリエンツ・ロートホルン鉄道(BRB)は、スイス中西部のブリエンツからスイス・アルプスのブリエンツ・ロートホルン(標高2,350m)の山頂へ登る、ラック式(2本のレールの中央に歯型のレール[歯軌条、ラックレール]を敷設し、車両の床下に設置された歯車[ピニオン]と噛み合わせることで、急勾配を登り下りするための推進力と制動力の補助とする鉄道)の登山鉄道である。路線は総延長7.5kmで、他のスイスの登山鉄道と異なって電化されておらず、そのことが却ってこの鉄道を、スイスで数少ない(1953年から1990年までは唯一の)蒸気機関車による鉄道として、魅力的なものにしている。 
1897年 - 神奈川県の船大工360名が同盟罷工。同盟罷工とは、ストライキのことで、雇用側(使用者)の行動等に反対して、被雇用側(労働者)が労働を行なわないで抗議することである。