6月5日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0070年 - エルサレム攻囲戦 (70年): ローマ帝国皇帝ティトゥス(ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス)率いるローマ軍が、イスラエル(現在の中東のパレスチナに所在)東部にあるエルサレムの中間城壁を破壊する。
1221年 - 後鳥羽上皇(第82代天皇、後鳥羽天皇が譲位により皇位を後継者に譲った後の尊号)が約1,700騎の兵を率いて倒幕の挙兵(承久の乱)。日本史上初めて、朝廷の勅(天皇の命令)や院宣(上皇からの命令を受けた院司[上皇直属機関の職員]が、奉書[高位者による命令書]形式で発給する文書)に逆らう軍事行動によって、朝廷に反乱軍が勝利した事件とされる。鎌倉幕府の成立後、東日本を領地として持つ武家政権である鎌倉幕府と、西日本を領地として持つ京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この承久の乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承等に影響力を持つようになる。鎌倉幕府第2代執権(鎌倉幕府の棟梁[統率者]、鎌倉殿を助け政務を統轄した執権が、幕府の事実上の最高責任者となる体制であった)北条義時は、朝廷を倒した唯一の武将として知られることとなる。承久の乱の後、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島(島根県の北東に位置する島根半島の北方約50kmにある諸島)に配流され、配所で崩御(天皇等の死亡を表わす敬語)している。
1244年 - 鎌倉幕府第4代執権北条経時により、鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経が将軍職を譲らされ、嫡男で6歳の藤原頼嗣が鎌倉幕府第5代将軍に就任する。元々は傀儡将軍であった藤原頼経は、年齢を重ね官位を高めていくにつれ、幕府内での権力基盤を徐々に強める等して、北条経時との関係が悪化し、将軍職を解かれることとなる。翌1245年に出家、行賀と号するがその後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されて、なおも幕府内に勢力を持続けたことから、1246年には京都に送還される。1252年には藤原頼嗣も将軍職を解任され、京都へ送還され、1256年、藤原頼経は赤痢のため39歳で京都で薨去し、翌月には藤原頼嗣も死去している。なお、藤原頼経と藤原頼嗣の2代を、摂家将軍・藤原将軍・公卿将軍と呼ぶ。 
1691年 - 江戸幕府が、豪商の住友家(世界最古の財閥[一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態]とも言われる、日本の三大財閥の1つ、住友財閥の創業者一族)に別子銅山(現在の愛媛県新居浜市の山麓部に所在)の採掘を許可。別子銅山は、1690年に発見され、翌年から1973年までの282年間に約70万トンの銅を産出し、日本の貿易や近代化に寄与する。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎を築くこととなる。最初の採鉱は、海抜1,000m以上の険しい山中(旧伊予国[愛媛県]宇摩郡別子山村)であったが、時代と共に、その中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化する。坑道は全長約700km、また、最深部は海抜約-1,000mにも及び、日本で人間が到達した最深部である。閉山後の現在は、植林事業の成果もあり、緑深い自然の山へと戻って、夢の跡のような産業遺跡がひっそりと佇んでいる状態であるが、近年は、それらの歴史的意義を風化させないことを目的とし、活用したマイントピア別子(別子銅山の施設跡等を利用したテーマパークで、観光坑道や観光鉄道、砂金採り場やバーベキュー食堂、季節の花園・芝生広場、イベント場等があり、約400台収容の大駐車場をもつ道の駅マイントピア別子を併設する)等、観光開発が進み、新居浜市の新たな資源として甦りつつある。また、別子山村の合併により、一体的な観光開発にも弾みが付いている。別子銅山は、その種類・時代・地域の多様さ、広さにおいて、貴重な鉱業遺跡群を形成している。別子銅山から発展してきた新居浜市には、鉱石の採掘から、精錬、関連して発生した化学工業、機械工業等、また、工場・鉱業所だけでなく、社宅等、生活の場も含めて、幅広い産業遺構群が現存し、一部は現在も用いられている。時代別には、開坑から明治、大正、昭和繁栄と閉山までの、時代の変遷を示す一連の遺構が残存する。
1806年 - ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の弟ルイ・ボナパルトを王として、ホラント王国(現在のオランダに存在したフランス帝国の衛星国)が建国される。
1832年 - 1832年のパリ蜂起(六月暴動)。1830年7月27日から7月29日にかけて、フランスで起こった市民革命、七月革命でブルボン朝最後の国王シャルル10世が退位後、レプブリカン(共和主義者[君主国における君主制廃止論者])が王政の廃止を強く求める中、ブルジョワジー階級(市民革命で、革命の推進主体となった都市における有産の市民階級)に人気のあるオルレアン公ルイ・フィリップが、代議院の推挙を受け、フランス国王ルイ=フィリップ1世として即位する。しかし、この時期には不作が続き、食糧事情は悪化、物価が上昇する等、全ての階級において不満が高まる。さらに、ヨーロッパ全土を襲っていたコレラ禍がパリにも発生し、18,402名の死者を出す。特に、貧困層は疫病で荒廃し、政府が井戸に毒を投じたとの噂まで広まっている。ナポレオン戦争(1803年5月18日から1815年11月20日にかけて、ヨーロッパ大陸全域を舞台に、断続的に発生した各戦争の総称で、いずれの戦争においても、フランス皇帝ナポレオン1世がその中心にいたことから、この様に名付けられた)期に活躍した陸軍軍人で、後にフランスの国会議員となったジャン・マクシミリアン・ラマルクは、ルイ=フィリップ1世の立憲君主制(三権分立を原則とした憲法に従って、君主の権力が一定の制約を受ける政治体制)を批判する主要人物となり、人権や政治的自由の擁護を怠っているとして、新体制を攻撃する。貧困層に向け同情を示し、国民的な人気のあったジャン・マクシミリアン・ラマルクも、疫病のために死去している。レプブリカンを主導していたのは、活動に専心した秘密結社の一団で、レプブリカン達は、6月5日にジャン・マクシミリアン・ラマルクの民衆葬を行ない、葬列はバスティーユ広場(フランスの首都パリ中心部に所在)に向かう示威運動ともなり、葬列には、共和主義者として亡命しているポーランド人、イタリア人、及び、ドイツ人らの運動家も参加している。レプブリカン達は棺の周りに集まり、ジャン・マクシミリアン・ラマルクが、ポーランドとイタリアの自由のために強力に支持し支援したことについての演説を行なう。群衆の中から、「自由、さもなければ死を」と書かれた赤旗を振る者が現れ、群集は叛徒化し、警備していた政府軍は、それに向けて発砲を始める。混乱は止めようがなく広がり、パリの東部から中央部にかけて暴動は拡大し、叛徒は約3,000名となる。政府軍は、民兵に加え、正規兵を投入して兵力を強化し、叛徒と化した群集を包囲する。抗争は6月6日の夕刻まで続き、政府側は73名の死者と344名の負傷者の一方で、叛徒側の犠牲者は、死者93名、負傷者291名を数えている。暴動後、多くの銃火器が回収され、所持すると軍法に問われる可能性がある、とされる。革命で政権を得た政府は、自らの手により過去の革命を遠ざけることとなる。1862年に出版された、フランス・ロマン主義(感受性や主観に重きをおいた精神運動で、恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもつ)の詩人・作家、ヴィクトル・ユーゴーの大河小説『レ・ミゼラブル』は、ナポレオン1世の敗退から六月暴動までの20年を描き、六月暴動は終章のクライマックスとなっている。ヴィクトル・ユーゴーは、歯に衣着せぬ活動的なレプブリカンで、革命を支持していたという。
1849年 - 北ヨーロッパに位置するデンマークが、新憲法の採択により立憲君主制(君主の権力が、憲法によって規制されている政体)に移行。