5月29日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0363年 - クテシフォンの戦い: ローマ皇帝ユリアヌス(フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス)が、サーサーン朝(現在のイラクを中心とした地域を支配した王朝)の首都クテシフォン(現在のイラクにある古代都市)の城壁まで進撃するが、クテシフォンの街は落とせず撤退する。
0526年 - 東ローマ帝国(地中海地域を支配したローマ帝国の東側の領域)のアンティオキア(現在のトルコ最南端にある都市、アンタキヤ)で大地震が発生。規模は、推定でマグニチュード(M)7.7とされ、地震と津波による推定死者数は、約25万名から約30万名とされる。
1176年 - レニャーノの戦い: ロンバルディア同盟(北イタリアの都市による軍事同盟)軍が、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍を破る。
1293年 - 平禅門の乱。鎌倉幕府を支配する北条氏得宗(家督相続予定者の家系)家の内管領(家来の筆頭)として絶大な権勢を振るった平頼綱が、主君である鎌倉幕府第9代執権北条貞時によって邸宅を襲撃され、討伐される。若くして執権となった、北条貞時の乳母の夫に当たる平頼綱は当初、手続きを重視した政治運営を行なっていたが、後に政治姿勢を一変させ、強圧的な政権運営へと舵を切る。平頼綱に対する幕府内部での不満が高まったこと等から、成長してからの北条貞時は、平頼綱の権勢に不安を抱くようになり、鎌倉にある建長寺等、多数の神社仏閣が倒壊した他、多数の死者が出た鎌倉大地震の混乱に乗じ、軍勢を派遣して、平頼綱邸への襲撃を命じる。平頼綱は自害し、その一族も滅ぼされている。なお、平頼綱は権力を掌握するとすぐに出家し、平禅門と呼ばれている。
1453年 - オスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身で、全盛期には地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国となっていた)の第7代スルタン(皇帝)メフメト2世が、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のトルコの都市、イスタンブルの前身)を陥落させ、東ローマ帝国が滅亡する。
1582年 - 備中高松城の戦い: 織田信長に中国地方攻略を命じられていた羽柴秀吉が、水攻めのため備中高松城(現在の岡山市北区高松に所在した城で、石垣は築かれず、土塁によって築城されていた)を包囲する堤防の建設を開始。僅か12日間で堤防は完成し、折しも梅雨の時期でもあり、降続いた雨によって広大な湖が出現し、備中高松城は孤島と化す。堤防を完成させた羽柴秀吉は、堤防の上に見張り場を設け、城内の様子を監視する。備中高松城の城内では、水攻めという奇想天外な戦法に動揺が広がり、兵の士気も低下してゆく。九州や中国地方に勢力を拡大していた毛利家の当主、毛利輝元が率いる、備中高松城への約4万の援軍も、湖を前にして身動きが付かず、さらに、織田軍の援軍が送られてくることから、毛利輝元は、羽柴秀吉との講和を決意することとなる。 
1605年 - 豊臣姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした豊臣秀吉の三男、豊臣秀頼が、朝廷の最高機関、太政官の職の1つである右大臣に任ぜられる。美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町に所在)を主戦場として行なわれた野戦、関ヶ原の戦いを中心に、日本の全国各地で戦闘が行なわれ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれて、豊臣政権が統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになり、戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた「天下分け目の戦い」の戦後処理において、徳川家康は、羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配する。日本全国に分散して配置されていた約220万石の内、諸大名に管理を任せていた分を奪われて、豊臣秀頼は摂津国・河内国・和泉国(現在の大阪府を中心とする地域)の直轄地のみを知行する、約65万石の一大名の立場に転落する。1603年2月、徳川家康は、鎌倉幕府や室町幕府の最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍の官職を獲得。諸大名を動員して江戸城の普請を行なわせ、独自の政権構築を始め、豊臣秀頼は次第に天下人の座から外されてゆくことになる。しかし、この江戸城の普請に関しても、豊臣秀頼の直臣が奉行として指揮しており、一定の影響力を保っている。同年7月、豊臣秀頼は、生前の豊臣秀吉の計らいで婚約していた、徳川家康の三男、徳川秀忠の娘である千姫(母は豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母、淀殿の妹、お江)と結婚する。その後も、摂関家の家格に沿った順調な位階や官職の昇進を遂げ、毎年の年頭には、平公家が大坂城に大挙下向して豊臣秀頼に参賀しており、また、家臣に対して独自の官位叙任権を行使する等、朝廷からは豊臣秀吉生前と同様の礼遇を受けている。武家の世界においても、豊臣秀頼の家臣は陪臣ではなく、徳川直参と同等に書類に記載される等、豊臣秀頼はなお、徳川家と一定の対等性を維持している。1607年1月、豊臣秀頼は右大臣を辞するが、朝廷では誕生以来、豊臣秀頼を摂家豊臣家の後継者として見做しており、これは、関ヶ原後に徳川家康に権力が移っても、関白になり得る存在として、朝廷内での位置付けは変わらず、慶長末年に豊臣秀頼が国家鎮護のために、焼失した方広寺(現在の京都市東山区に所在)の大仏を再建した際にも、供養会に朝儀を挙行し文書を調える等、朝廷は豊臣秀頼のために機能しており、さらに、豊臣家は、幕府からは五摂家と同じく公家として扱われている。徳川家康も、将来の豊臣秀頼の扱いについては迷いがあったとされているが、最終的には、1614年に起こった方広寺鐘銘事件(梵鐘の銘文の内、「国家安康」「君臣豊楽」の句が、徳川家康の家と康を分断し、豊臣を君主とし、徳川家康、及び徳川家を冒瀆するものと看做されたこと)を口実に豊臣秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発する。1615年、大坂冬の陣に続く大坂夏の陣により、大坂城は陥落し、豊臣秀頼は、母の淀殿らと共に自害して果てる。
1660年 - フランスに亡命していたチャールズ2世が、現在のイギリスの首都ロンドンに入城してイングランド王となり、王政復古がなる。
1727年 - ピョートル2世がロシア皇帝に即位。
1780年 - アメリカ独立戦争: ワックスホーの虐殺。サウスカロライナのランカスター(現在のアメリカ合衆国南東部に所在)で、エイブラハム・ビュフォード大佐の率いる大陸軍(イギリス軍に対抗するために作られた、アメリカ13植民地の統一された命令系統を持つ軍隊)とバナスター・タールトン中佐率いるイギリス軍等が戦い、イギリス軍が大勝する。大陸軍の隊列が崩壊した後、イギリス軍側の兵士は、降伏した兵士の多くを虐殺したとされ、イギリスがアメリカ南部の世論を味方に付けることに失敗する原因となる。
1790年 - ロードアイランド州がアメリカ合衆国憲法を批准し、アメリカ合衆国13番目の州となる。
1848年 - ウィスコンシン準州が州に昇格し、アメリカ合衆国30番目の州、ウィスコンシン州となる。
1864年 - フランス第二帝政皇帝ナポレオン3世(ルイ・ナポレオン)と、帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下で即位したオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟、メキシコ皇帝マクシミリアン(マクシミリアーノ1世)が、初めてメキシコの地を踏む。
1867年 - オーストリア皇帝はハンガリー国王を兼ねる存在(同君連合)とされ、軍事・財政・外交面は皇帝が直轄する、「アウスグライヒ」として知られるオーストリアとハンガリーの間の合意がなされ、これにより、オーストリア=ハンガリー帝国が誕生する。
1886年 - アメリカの化学者で薬剤師のジョン・ペンバートンが、初めてコカ・コーラ(世界初のコーラ飲料[炭酸飲料の一種]とされる)の広告を出す。
1891年 - 日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後のロシア帝国皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現在の滋賀県大津市)で警備に当たっていた警察官に、突然斬り付けられ負傷した暗殺未遂事件、大津事件の無期懲役判決の責任を取って、対英条約改正交渉の中心人物として活躍していた青木周蔵外相が辞任する。