5月26日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

県民防災の日(秋田県)。
秋田県が制定。1983(昭和58)年5月26日11時59分に日本海中部地震が発生し、津波等により104名の犠牲者を出したことから。この日は、県民に防災・減災の注意喚起をする日であり、県内各地で大地震を想定した防災訓練が毎年行なわれている。日本海中部地震は、秋田県能代市西方沖約80kmの地点を震源として発生した逆断層型(地殻を水平方向に圧縮する力が働き、断層がずれることによって起こるもの)の地震で、規模はマグニチュード(M)7.7、最大震度は震度5(強震)であった。当時、日本海側で発生した最大級の地震であり、秋田県・青森県・山形県の日本海側で、約10mを超える津波による被害が出た。日本国内での死者は104名に上り、その内の100名が、津波による犠牲者である。家屋の全半壊は3,049棟、船舶沈没、又は流失706隻。当時のシステムで津波警報が発表されたのは、地震発生から14分後であったことと、日本海側に津波は来ないという俗説がマスコミを中心にまかり通っていたことが、人的被害を大きくしたとされる。津波による死者の内訳は、41名が護岸工事中の作業員、釣り人が18名、遠足中の小学生13名等であった。地震発生が晴天の昼間、当日の波が穏やかであった等の事情により、沿岸には作業船、漁船、レジャー船等が多数出船していた。そのため、直ちに救助作業や遺体の収容作業が行なわれ、遺体が収容できなかった行方不明者は無かった。地震・津波による犠牲者を追悼するため、秋田県北西部の日本海沿岸に位置する秋田県山本郡八峰町には、「濤安(とあ)の乙女」像が建てられている。津波警報の遅れは問題視され、その後、各種の改善策が採られた。日本海中部地震の経験から構築されたシステムは、2004(平成16)年にインドネシア西部、スマトラ島北西沖のインド洋で発生したマグニチュード(M)9.1の巨大地震、スマトラ島沖地震で甚大な被害を受けた地区にも紹介された。2003(平成15)年5月26日18時24分に、宮城県気仙沼沖の深さ約72kmの地点を震源として発生したマグニチュード(M)7.1、最大震度6弱(烈震)の地震、宮城県北部沖地震(三陸南地震)では、地震の発生時刻、宮城・岩手・山形・秋田の各テレビ放送局は、夕方の県内ニュースの生放送中で、大きくスタジオのセットが音を立てて揺さぶられる様子や、キャスターが机の下に逃げ込む姿が見られ、強烈な地震であったことを印象付けた。日本放送協会(NHK)秋田放送局等、秋田県内各局でこの時間にあったニュースでは、日本海中部地震から20周年を特集したニュースの放送中に地震が起きた。
竹内洋岳・8,000m峰14座登頂の日。
プロ登山家の竹内洋岳が所属する株式会社ハニーコミュニケーションズ(東京都渋谷区千駄ヶ谷に本社を置くPR会社で、自然界において最も効率の良い六角形にフューチャーしており、効率よく、かつ効果性のある戦略で、クライアントのヴァリューアップを図っていく事業体を目指していて、竹内洋岳と専属マネジメント契約を締結している)が制定。8,000m峰14座とは、世界最高峰のエベレスト(標高8,848m)やK2(標高は8,611mで、エベレストに次ぐ世界第2位の高さ)といった標高8,000mを超える14の山のことである。2012(平成24)年5月26日、竹内洋岳にとって14座目となるダウラギリ(標高8,163m)に登頂し、日本人初、世界で29人目の世界8,000m峰14座の完全登頂を達成したその偉業を称え、成遂げた日を記録することが目的。1971(昭和46)年生まれで、祖父の手解きで、幼少より登山とスキーを始めた竹内洋岳は、1995(平成7)年に日本山岳会隊に参加して、世界第5位のマカルー(標高8,463m)東稜下部より登頂し、初めて8,000m峰を登頂する。翌1996(平成7)年には、エベレストとK2に連続登頂し、その後は8,000m峰を専門に登山活動を展開する。各国の登山家と少人数の国際隊を組み、酸素やシェルパ(ヒマラヤ登山支援を行なう、ヒマラヤ山脈南麓のネパールの少数民族の1つ)を使用しない軽量装備で、スピーディに高峰への登頂を行なう速攻登山で複数の8,000m峰を登頂している。竹内洋岳は、このような登頂方法をHAM(High Altitude Marathon、超高所耐久登山)と呼称している。 
空き家の将来を考える日。
千葉市美浜区中瀬に本社を置き、「日本空き家サポート」の名称で、全国47都道府県において空き家管理サービスを提供している企業、株式会社L&Fが制定。日付は、日本で初めての空き家に関する法律「空家等対策の推進に関する特別措置法(空き家対策特別措置法、平成26年11月27日法律第127号)」が全面施行された日、2015(平成27)年5月26日から。放置された空き家は全国で増加の一途で、大きな社会問題となっている。空き家を所有している人、これから空き家を出すかも知れない人に、空き家問題を正しく理解してもらうと共に、家族で空き家の将来について考えるきっかけを提供することが目的。2007(平成19)年4月に設立された株式会社L&Fは、リアルな人との繋がり(Link)を大切にし、IT技術を活用した独創的なサービスを世に送り出すことで、社会から信頼(Faith)される企業であり続ける。「日本空き家サポート」と「空き家サポーター」は、株式会社L&Fの登録商標である。相続・入院・施設への入居等、実家が空き家になる理由は様々ある。株式会社L&Fは、空き家の管理から売却までワンストップ(One Stop:1ヶ所で用事が足りる)で手伝ってくれる。「日本空き家サポート」で空き家の管理作業を行なうのは、不動産管理業務において高い専門性を持つ地元に根差した不動産・住宅関連企業の「空き家サポーター」である。管理レポートは、パソコンやスマホで確認できる。動画や画像が豊富に含まれた管理レポートでは、管理作業の様子や、空き家の屋外・屋内の状況が詳細に分かる。管理作業員と同じ目線で、そして、まるで現場にいるような感覚で、大切な空き家の様子を目にすることができる安心感がある。「空家等対策の推進に関する特別措置法(空き家対策特別措置法)」は、空き家の持ち主について市区町村に固定資産税の納税記録を照会し、特定して立入り調査権限をすることを認め、倒壊の恐れがある等の「特定空き家」については撤去や修繕を命じ、行政代執行(義務者が行政上の義務を履行しない場合に、行政庁が、自ら義務者のなすべき行為をなし、又は、第三者をしてこれをなさしめ、その費用を義務者から徴収すること)を可能にすることを規定している。
梓薫忌。
作家・評論家、栗本薫の2009(平成21)年の忌日。作家としては栗本薫、評論家としては中島梓の名義を使用したことから、両方の名前を取って「梓薫忌」と呼ばれる。栗本薫は、約30年間の活動で、新刊だけで約400冊の作品を発表した。その中には、1年間に20冊以上の新刊を発表した年も4年あり、晩年も年間10冊以上の新刊を発表していた。SF、ファンタジー、伝奇・時代小説、ホラー、ミステリ、耽美小説等、作品が極めて幅広いジャンルに亘っていることも大きな特徴である。特に、1980年代には、それぞれの分野で人気を博し、さまざまなベストセラー作品を生み出すと同時に、各ジャンルの数多くのアンソロジー(異なる作者による、詩文等の作品を集めたもの)に作品が収録された。中島梓名義の評論作品は、相対的には作品数が少ないが、人々が過密する現代日本に蔓延する、「他の存在」への想像力の欠如を特徴とする心理を、「コミュニケーション不全症候群」と名付けた評論『コミュニケーション不全症候群』は、現代の日本人のコミュニケーション薄弱な生活を鋭く分析しており、作家・思想家・哲学者・文芸評論家の笠井潔等から高い評価を受け、また、その論の一部が、多くの書に引用・収録された。1979(昭和54)年9月から1986(昭和61)年6月まで(1982[昭和57]年11月から1983昭和58]年9月までは産休のため一時降板)、クイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日系列局他で放送されていた番組で、当時としては最新のコンピュータを使用した出題形式を採用し、一般常識問題よりも難問・珍問・奇問を中心とする映像クイズを出題していた)に女性軍キャプテンとしてレギュラー出演した。同番組のメインとなっていた「16分割クイズ」においては、僅か2枚か3枚程開いただけで正解に導くことも多々あり、司会の土居まさる(軽快な話術が人気となっていた、アナウンサー・タレント・司会者)からは、「16分割の姫」と番組内で言われた。1990(平成2)年に乳癌のため、入院・手術しており、2007(平成19)年には、膵臓癌で2度目の癌手術を受ける。そして、2009(平成21)年5月26日19時18分、膵臓癌のため死去する。享年、56歳であった。